「白雪姫殺人事件」を観る

 湊かなえの小説を映画化した「白雪姫殺人事件」を見た。原作とは若干設定などが変わっているようなのだが、とても面白く感じた。見終わった後でネットの批評などを読むと、若い人たちの中にはあまり評価していない人も多く、世代が違うとそんなものかなと思ったが、わたしは多分原作も面白いのだろうし映画も良く出来ていると思った。

 以前にも書いたが、わたしは映画の大ファンというのではないので、どちらかというと甘い評価をするというか、ほとんどの作品に感心するので、目の肥えた若い映画ファンとは評価基準が異なるのだろう。特にわたしの場合は事前の情報がまったくない状態で見るので、話の展開に心を奪われるのかもしれない。見る前にいろいろな情報があると、そうでない場合と比べてより批評的になったり、期待値とのギャップに不満を持ったりして、厳しい評価になるような気もする。

 そうだとするとまるでマーケティングの授業でやる洗剤に対する消費者の評価と同じだ。つまりあまり汚れが落ちて白くなることを強調しすぎると、汚れ落ちに対する消費者の期待値が上がってしまい、同じような汚れ取りの能力を持つ商品よりも評価が下がるという話だ。評価とは期待値と実績の関数だということで、あまり期待を高めてもいけないと言うのが教訓だ。

 話がそれたが、これは殺人事件の犯人にされそうになる女性を描いた話である。冤罪事件といっても良いのだが、冤罪が警察の杜撰で強引な捜査や自白強要で起きるのではなく、人々の無責任なコメントや思い込み、中傷等で狙われた人が犯人にされてしまうプロセスを描いている。特にそれがツイッターでつぶやかれたままで、真偽が検証されずに事実とされて広まってゆく怖さが描かれている。

 そのツイッターで容疑者を特定していくのがTV制作会社(テレビ局の下請け)の若いディレクター?の兄ちゃんで、それに基づいてワイドショウのようなニュース番組が作られ、あたかもある人物が犯人であるかの話が作られてゆく。真実を求めることより、他局に先んじてインパクトのある番組を作ること、たとえそれが真実であろうとなかろうと、そのことが最優先される現実が描かれる。良心とか正義などを持つことが番組制作には障害になるという話である。

 こう書くとやや通俗的に感じるかもしれないが、わたしのような年齢の人間には、ツイッターで囁かれることがほとんど思いつきで信ぴょう性がなく、状況が変わると正反対のコメントが平気で出てくることに驚きを感じざるを得ない。冒頭でこの映画の評価には世代間で差があるのかもしれないと書いたのはこういう事情からだ。だから退職後の人のほうが楽しめるかも知れない。
 井上真央綾野剛が好演でファンは楽しめるだろう。