JTB旅物語の対応には呆れた

 ブログを書くのは3か月ぶりで最も長い休止期間となった。書く気が起こらずさぼっていただけなのだが、その間にもいろいろなことが起き、その多くは呆れることばかりだった。何と言っても岸田総理の鈍感さだ。国民感情への感知度の低さには呆れてしまった。これではどんな経済対策をやっても支持率など上がらない気がする。統一教会問題にかかわった政治家の恥のなさや爆笑問題太田光の思慮の浅い逆張り発言にも呆れた。韓国の怪しい宗教に国家の尊厳を傷つけられてなんとも思わないのだろうか。

 もっとも日本だけではなくプーチンの戦争、トランプの復帰活動、トラス前英国首相の根拠のない減税計画など海外のリーダー達の行動にも呆れることが多かった。

その他にもyutubeなどで報告される警察の交通取り締まりの杜撰さにも呆れることが多い。そんな中でわたしも呆れる事態に直面した。それはJTBの旅物語に関しての旅行会社、特にスタッフの対応のお粗末さであるが、それはやはり明らかに会社のお粗末さである。

 

 JTBの旅物語が来年のGWに主催するクルーズ旅行に申し込んだ。期間も7日と短く代金も割安なので二人の子供たち家族も入れて10人で申し込んだのだ。最終的にはこのクルーズの運航を行う予定のイタリアの船会社が、経営的観点から来年の日本での運航をやめたことにより ツアーは中止になった。とても残念な結果だがそれ自体はJTBの責任とは言えない。もちろん見通しの甘さへの批判はあるだろうが。

 わたしが問題と感じたのは申し込み、中止後の連絡などにおけるJTBスタッフの対応である。申し込みは電話でしか受け付けず、申し込み時の電話でいくつか不安を感じたので、文書での申し込みとか確認のやり取りをしたほうが確実なのではと提案した。電話口での女性は全く聞く耳を持たず電話のみしか受け付けないと主張し続けた。顧客の要望とか利便性には全く関心を持たず、自分たちの都合や効率を押し付ける姿勢にまず呆れてしまった。

 実は2020年にもJTBの旅物語で東北、北海道、ウラジオストックに行くクルーズ旅行を申し込んだ。8月の実施だったが、2月くらいに申し込んだ。しかしコロナの蔓延に不安になり3月にキャンセルをしようとしたら、電話対応の女性にキャンセル料を払えと言われて驚いたことがあった。この状況だと旅行は出来ないのではと問いかけても、JTBが中止を決めたらキャンセル料はないが、客がキャンセルする場合はキャンセル料がいると主張して譲らなかった。電話口のスタッフと議論しても始まらないので、では行きますといって電話を切ったが、2ヶ月後くらいに向こうから旅行中止を言ってきた。 企画した旅行を簡単に中止にしたくない気は分からないでもないが、あのコロナの状況で客がキャンセルを言ってきたら受け付けようとスタッフに指示するのがまともな会社のやり方だ。この件は2020年3月の当ブログに書いた。全く変わっていない会社だとつくづく感じた。

 

 今回の申し込みの2週間後くらいに、youtubeで当該のイタリアの船会社が来年は日本での運航を行わないと発表したのを知った。2,3日後の10月31日ににJTBに電話すると今回は男性が出て、GWのクルーズ旅行は中止になったので申込金の返済などを説明した手紙を今日発送したと説明され、本当に中止になったことが確認されがっかりした。しかし待てどもJTBから何の手紙も来ないので、11月8日の今日電話した。電話に出た女性はこちらの名前や住所等を確認してから調べていたが、急にお客様の家には表札がありますかと訊いてきた。どうも表札がないので届かないと言いたそうだったので、わたしが表札はあるし、そもそも申込金の振込用紙等は送られてきたのだから、来ないのはおかしいと言うと、もう一度手紙を送ると言って電話を切った。

 その午後に郵便配達が旅物語の手紙を持ってきたので、電話した時点ではすでに発送済みだったことは分かった。しかしもっと驚いたのは配達の人が差出人が切手を貼っていないので87円払ってくれと言ったことだ。払わないと手紙はもらえないそうだ。こうなるともう馬鹿馬鹿しくなる。払ってもよいが先方からその金額をもらうのにはどうするのかと配達員に訊くと領収証は発行できるという。しかしその領収証がJTBからの手紙の切手代だとは分からないと言う。領収証を送ってJTBに切手代返してくれと言ってもまた不快な対応をされるだけだろう。郵便配達人とやり取りをしてもどうにもならず、配達人は受け取り拒否と書いた紙を貼りここに捺印してくれと言った。別に拒否しているわけではないのだが、捺印に応じた。手紙は戻ってしまった。いつ来るのだろうか。申込金はすんなり返済されるのだろうか?

 

 まあこういう経緯で、だからどうしたと言われるとどうでもないのだが、大会社がこうしたお粗末な対応をし続けているという事実の報告である。明らかなのはこの会社には顧客志向などは全くないことだ。きっと会社には立派な企業理念やヴィジョンがあってHPなどに乗っているのだろうが、全く従業員に根付いていない。それは経営幹部が本気でそんな理念を信じていないことのあらわれだ。コンプライアンスとか内部統制を整備したと言いつつ繰り返し不祥事を起こす企業が多いが、これと同じで作って書いただけで、本気で実施しようとは思っていないのだ。そんなことをしていたら営業などできないなどと思っているのだ。

 ささやかな教訓があるとするなら、JTBで旅行を申し込む人はこの会社の本質はこんなものだと思っていたほうが驚きはないということ。一般庶民をお客様などと言ってはいるが口だけと思って付き合ったほうが良いということだ。

 

  

難しい問題の割り切り方

 ロシアのウクライナ侵攻の終結が見通せない中で、安倍元首相への襲撃事件が起きた。単なる政治テロなら事態はもう少し簡単なのだろうが、宗教の問題が絡み犯人の母親が宗教団体へ常識を超えた額の献金をしていたこと、その結果犯人や兄弟がひどい経済的苦難を受けていたことが分かり、犯人にも同情の余地があると報じられると問題は複雑になった。自民党を筆頭に多くの政治家がこの事件の元になっている旧統一教会と関係を持ち支持するような姿勢をとってきたこと、そして安倍元首相がその中心にいたことで、本来なら取り締まられるべき統一協会の行為が見逃されてきたからである。マスコミもテロ殺人はまったく擁護できないが、犯人もある種の被害者だという論調に代わってきた。

 

 わたしもこの犯人を単純には非難出来ない。わたしも同じ境遇に置かれれば実際テロ行為行うかどうかは別にして、統一教会やそれを支持するかのような政治家達には憎悪の念を抱いただろうと思うからである。ウクライナの人々への攻撃に胸を痛め、この犯人の境遇にもやるせない思いを抱きながら、それを自分でどう処理すべきか分からない状態だ。さらに中国も近い将来台湾に侵攻しそうだし、そして日本がそれに巻き込まれるリスクも高いなどと考えると完全に思考のキャパシティを超えてしまい途方に暮れる。こんな時人はどう物事を整理し生活を続けていけばいいのだろうか。

 

 週刊文春の連載エッセイ「夜ふけのなわとび」で林真理子はかつて雇ったお手伝いさんに統一教会の人がいたことを明かし、こう結んでいる。’世の中にはどうしても宗教を必要とする人間がいるのである。そうした人間がいる限り、宗教をめぐる悲劇は起こる。信じるものと信じないものとを、たとえ家族でも真っぷたつに分断させるのだ’

 

 一流作家だけあり見事な人間分析だと思う。人間とはそういうものだという割り切りは真理を含んでいる。でもわたしにはこれで終わってしまっていいのかという思いが残る。これだけ書いて終わると、読み手の中には人間にはこういう側面があるから色んな事件が起きても仕方ないなと、考えてしまう人が出てくるのではないか。そうなると何故こんなことが起きたのだろうか、どうしたら防げるかとかに考えが進まず、一種の思考停止になってしまう。テレビや雑誌で難しい問題を見事に割り切ってくれる人の話を聞いたり読んだりすると、人は何かスッキリした気持ちになり安心するのだが、それだけでは事態の解決や改善には役立たない。

 

 林真理子の割り切りは見事だけれどもいろんなことに使えるから怖いのだ。例を挙げてみよう。

’世の中には人の上に立ち命令を下すことが自分の使命だし大切なことだと考える人間がいる。一方で世の中には強い人に従って生きるのを好む人間もいる。従う人たちは上に立つ人の指示で動き、その中で上の人に取り入ろうとする人は指示を完璧に実行したり、場合によってはそれ以上の行為を忖度して行う。そこでは指示された行為の是非を十分に考えられていない’

 

’強く尊敬される国になるには何より力が重要だと考える人間がいる。その力とは軍事力だ。それを使用して他国を従わせることが自国に繫栄につながる。戦争をして一般市民が死んでもやむを得ないと考えている。それは国のためというだけではなく、戦争を仕掛けた本人の名誉や富のためでもあるのだが、それには気づかないかそうした振りをする。そしてこうした指導者は往々にして国民の支持を得るのだ。残念だがこうした要素が人間にはある。だから古来戦争がなくならない’

 

 こうした例はいくつでも作れる。そしてそれは説得力さえ持つ。何故ならそれは人間の本質的な真実を伝えているし、それを求める人の救いにもなるからだ。そう、宗教や政治団体にも共通するところだ。

 

 こうした問題の割り切りがダメだというのではないが、同時になぜこんなことが起こるのか、どう対処したら解決や改善につながるのかを議論しないとまた同じことを繰り返してしまうだろう。宗教とか戦争とか国家とか自由とかとても大きな問題だから答えなどが簡単には見つからない。しかしある種の割り切りで安心して問題の本質を考えようとしなかったら事態は悪化するばかりだろう。わたしが嫌な気分になるのは、今の世の中でそうした議論を避けるのがスマートだという風潮があることだ.。人々を引っ張ってゆくべき政治家や官僚さえもそうした議論をしないのか出来なくなっている感じがする。

 

 教育を通して若い人たちが困難な物事を正面から見つめ、考えてゆく気持ちを持つようにすることが大切だ。教育の重要性が叫ばれることは多いが、そのほとんどが底の浅い技術的な問題の議論だ。実用的な英語の習得、ITリテラシーなどだ。国家とは何か、人種とは何か、民主主義と全体主義、自由と権利、宗教の対立、こうした問題の基礎を小、中、高で議論することが中長期的に社会のためになると思うのだがそんな動きは少ない。むしろそれを避けて知識の習得に力を入れたがる。考えることをやめさせようとしているようにさえ感じる。

 

 今回の事件のもとである宗教についても、人はどんな時に宗教にすがろうとするか、宗教のどこに救いを感じるのか、宗教団体から求められる献金や奉仕にどう対処するか、カルトとは何かなどを若い人たちと考える場を学校で持つことは意味があるし、実行は可能なはずだ。教育行政を司る官僚のやる気と現場の教師へのサポートがあればできると思う。多分日本は明治初め以来の困難に向かい合っている。あの時に新しい国家の基礎を築いた人たちがいた。そうした高い志を持った政治家や官僚はいないのだろうか。内閣改造が行われたばかりだが希望の光は見えては来ない。老人はため息をつくばかりだ。  

 

 

 

リゾートトラストのテレビCMに感じる違和感

 リゾートトラストはその名の通りリゾート施設を開発し、それを利用する権利(会員権)を多くの人に販売することを主な業務としている会社だ。ゴルフ場の開発販売や、医療施設も手掛ける大企業で、女子プロゴルフの大会も支援している。

 

 この会社のリゾート施設の中でも、ベイコート、サンクチュアリコートというブランドの施設はとりわけ高級でその会員権も高額だ。これら施設のテレビCMはほとんどが外国人カップルがその豪華絢爛なホテルやレストランでポーズを決めることで高級感を演出している。あたかもそこは日本ではない外国で世界の富裕層が楽しむ場所であるかのようだ。しかしわたしはこのCMを見るたびに違和感を感じていた。外国人(白人)を使って豪華さを訴えるほどに、陳腐さや軽薄さを感じていたように思う。日本の富裕層はこうしたCMにひかれて、その施設に関心を持つのだろうか?多くの富裕層は本当にこれらのCMが良いと思うのだろうか? リゾートトラストがターゲットにしているのはこのCMに反応する人たちなのだろうか?

 

 こんなことを書くとお前はそこの高い会員権を買えないからひがんでいるのだろうと言われそうで、それはそれで間違いでもないのを認めても、やはり変だなという気持ちは消えない。何かずれているんじゃないかと感じてしまう。

 

 そんな中でサンクチュアリー琵琶湖のCMを見た。ここはベネチアン・モダン・リゾートとして訴求しているせいか、ゴンドラに乗った外国人カップルがホテルに向かっている。ゴンドラではイタリア人の船頭(ゴンドリエーレ)がカンツオーネを歌っている。(この船頭は日本在住のイタリア人オペラ歌手で俳優とのこと)これまでのCMの中でもとりわけ気合が入ったもので、リゾートトラストCMの集大成のように思える。白人カップルをゴンドラに乗せてカンツオーネを聞かせないとこの施設の良さが伝わらないのだろうかと思ってしまう。

 まるで40年ほど前のバブル時代の光景だ。日本の地価が異常に値上がりをして、銀行をはじめとした産業界が非常識な投資をして利益を上げ、それに群がる人たちがバカ騒ぎをしていた時代を彷彿させる。過去の経験や失敗に学んだ人なら、こんなCMは時代錯誤だと感じると思い、今更こうしたものは作らないと思うのだが。

 

 白人カップルを使い船頭にカンツオーネを歌わせるより、もっと良いやり方があると思う。白人を使って西洋風豪華さを訴えるのはそもそも時代に合わないし、西洋コンプレックスを感じさせる。それより日本と外国(西洋だけではない)の良さを併せ持ったリゾートをコンセプトに開発を行い、海外のものとは違うユニークさ訴求したほうがいいと思う。そう考えたら、わたしなら日本人歌手を使うし、演歌をうまく使ったらずっとオシャレ感が出るはずだ。氷川きよし石川さゆり八代亜紀なんていい。演歌が嫌なら若い時の沢田研二松任谷由実ハイファイセットなんかもいいなあ。きっとギャラは高いかもしれないが。

 

 わたしは第三者だから、これらの施設の会員権が売れるかどうかなどは関心がないし、このCMに惹かれた人が会員権を買うのは構わないのだが、こうした時代遅れのコンセプトのCMが流されるのを見るのは情けない気がする。そう思うのはわたしだけだろうか?この会社の経営陣や広告代理店の幹部はどう思っているのだろうか?

 

 

山口旅行(2)

 山口旅行の3日目は萩から始まった。前日の曇空から一転、快晴で気温も30度近くになるとの予報だった。ホテルの部屋は萩城下町(旧上級武家屋地)に面しているが、反対側は海で砂浜の広がる海水浴場だった。部屋からの景色。夏はさぞ賑わうのだろうと思われた。

 

車をホテルに置いて武家屋敷を歩き萩博物館を見ました。世界遺産に登録された町並みは本当に美しい。

上の右は高杉晋作の生家。

 

萩藩ご用達の商人、菊屋の住宅は庭が特に素晴らしい。


その後で明倫学舎を見て、松下村塾に行く。明倫学舎は再建したもので印象は薄いが学習室を撮った。もう一枚は松下村塾。小さな寺子屋という感じだが、ここから多くの偉人が輩出したことを思うと感慨深い。

松下村塾を違う角度から写したもの。右の写真にはここで学んだ偉人たちが飾られています。

下の右は松下村塾がある松陰神社

 

萩にはもう少しいたかったが、この後秋吉洞を見て山口市まで行く予定なので昼には出発しました。

秋吉洞は有名な鍾乳洞です。観光できる長さは約1キロで中はひんやりしています。入口の写真。

洞内は薄い照明があって、水が流れています。下の左の写真は百枚皿と呼ばれる石灰岩が階段状になっています。トルコのパムッカレに似ています。

水面に石灰の壁が映って見事です。

 

この後車で秋芳台まで行き展望台から雄大な景色を眺めました。

 

 山口市へは5時過ぎに到着。ホテルにチェックインして少し休んだ後でロビーで会社時代の後輩と待ち合わせ。彼は山口市出身で50歳ころに早期退職して故郷に帰り、税理士をしている。会社では営業と人事にいたのだが、その間に税理士の資格を取っていた。今62歳でわたしより10歳下だ。従業員も3人雇って中々の活躍のようだ。会社のOBに合うことは多いが、ほとんどがわたしと同世代か上なのでのんびりと暮らしている人が大半だが、彼はバリバリの現役で話していても話題が豊富で楽しい。後輩のこんな姿を見るのは嬉しくなる。彼が予約してくれた焼き鳥のお店もオシャレでとても美味だった。楽しい会話で酒も進んで少し飲みすぎた。

 

 翌日は二日酔いもなく、五重塔で有名な瑠璃光寺と常栄寺雪舟庭に行きました。瑠璃光寺は香山公園の中にあります。

 

 

 

 


そこから車で5分ほどにある常栄寺は500年ほど前に大内政弘が建てたもので、庭を雪舟に作らせたと言われています。

 

この後空港に行き車を返して、3時過ぎに飛行機で帰りました。疲れたけれども楽しい4日間でした。











 

 

山口旅行(1)

 5月19日から3泊4日で山口(一部九州)に行ってきた。コロナ状況下でも時々2,3泊の旅行には行っていたが、それらの移動は車だった。今回は飛行機を使ったという点で一歩普通状態へに進んだと言えるかもしれない。  羽田から宇部山口へはANAJALが毎日2本づつ飛んでいるそうだが、わたしの便は満席だった。

 

 宇部山口空港で車を借り、門司に行き観光後宿泊。翌日は191号線で北上し、角島大橋を見て、青海島遊覧船に乗り、萩まで行き宿泊。3日目は萩市を観光して秋吉洞と秋芳台に行き、山口市で泊った。翌日は山口市内を見て帰宅という日程だった。普段と違いハイブリッドの車で慣れていないのと、瀬戸内海から日本海側の往復という結構な距離を走ったのでかなり疲れたが、思っていた以上に楽しい旅行だった。

 

 写真を使って主な訪問地を振り返ってみたい。まず1日目と2日目。

最初の訪問地の門司は大正、昭和初期の古い洋館が残っていて、この街が昔貿易港として栄えたことを示しています。わたしが生まれ育った横浜に似ていて親しみを持ちました。門司港駅です。


1914年に建てられた駅舎でもう100年以上前ですが、驚くべきことに今でもJRの駅として使われています。

 

 

旧三井クラブでアインシュタインが来日時には泊まったそうです。東京の三田にも三井俱楽部があり、会社時代に色んな行事で行ったことがあります。右の写真は黒川紀章が設計した高層マンションで最上階には展望台があります。

展望台から見た関門橋門司港

 


門司はこうした街並みを観光に生かそうとして門司レトロと名付けて色んなことをしています。それと関連するかどうかは分かりませんが、街角には可笑しなものもありました。

左は門司のキャラクターでゆるキャラで準グランプリをとったそうです。真ん中はバナナのキャラで門司はバナナのたたき売り発祥の地とのこと。左はなぜか(多分バナナのせい)黄色いポストです。下はバナナたたき売り発祥の碑です。

 

その後で関門トンネルに行きました。NHKの’72時間’でやっていたのを見てこの地下トンネルを渡ってみたいと思っていました。門司側から見た地下道はまっすぐでした。

福岡と山口の県境です。門司と下関への距離が示されています。

 

トンネルの構造(歩道の上に車のトンネルがある)と下関側の入り口です。10分ちょっとで渡れます。

 

2日目は191号線を北に行き角島大橋を目指しました。途中に赤い鳥居の神社が見えたので寄りました。妻が行きたいと言っていたので良かったと思いましたが、彼女が行きたかったのは元乃隅稲成神社で、これは角島大橋より先なので間違えて寄ったことになります。わたし達が立ち寄ったのは福徳稲荷神社でやはり赤い鳥居が有名だそうです。また神社の歴史もこちらのほうが古く由緒あるようです。

 

角島大橋は長く優美な橋でした。夏はキャンプや海水浴で賑わうそうです。木村拓哉の’HERO'のロケも行われたそうです。島内には角島灯台があります。



角島大橋を出て日本海側を走ります。ガードレールが黄色く塗ってあるのが目を引きますが、これは山口県が最大の産地である夏みかんにちなんだそうです。夏みかんのクッキーを土産に買いましたがとても美味でした。次の目的地は青海島(おうみしま)です。ここは周囲40キロの島をぐるっとまわる遊覧船が有名で、知床の事故があり少し警戒感もありましたが、波も穏やかなので乗船しました。1時間20分ほどで島を1周します。奇岩や断崖絶壁が連なり見事な景観です。

ノルウェーフィヨルドにも行きましたが、あれは航空写真などで見ると見事な峡湾ですが、大きすぎてそこを通っていると単に山並みを見ている気になります。その点青海島のほうが高さ100メートルを越す断崖が迫ってきて見栄えがしました。奇岩の方はオーストラリアのグレートオーシャンロードの先にある十二使徒と言われる奇岩群にも似ていました。

無事船を降り萩まで行きました。3日目以降は次回で。









 

 

 

ロシアの暴力に想うこと

 最後にブログを書いたのが2月27日だからほぼ2か月ぶりの記事になる。この最長のブランクの原因はやはりロシアのウクライナ侵攻だ。他国に攻め込み無慈悲に人を殺戮することにショックを受けたのは当然だが、わたしが無力感に陥ったのは次の二つの理由からだ。一つは核攻撃の可能性を示すことが相手国やその支援国への威嚇に有効なのが分かったという事実、二つ目はウクライナの悲劇に胸を痛める気持ちに偽りはなくてもやはりそれは他人事だという現実、ある種の後ろめたさを確認せざるを得なかったことだ。

 

 圧倒的な力で暴力をふるう相手には弱者は従わざるを得ないということは今でも変わっていない。二つの世界大戦を経て、武力や暴力の行使は抑制する知恵が共有されてようになっていたのかと考えていたがそれは幻想だったようだ。ロシアに対する各国の対応を見ても、多くの国は何が正義かではなくどうすれば自分の利益になるかで行動をしているようだ。これでは強いものに付こうという暴力団の勢力争いと変わらない。 日本の政治家もマスコミもいい加減夢見るような平和論は卒業して、現実に即した外交、防衛政策を議論すべきだ。中国や北朝鮮の動きを見ても核保有の議論は避けられない。検討しているうちに手遅れにならないように早急に必要な準備を始めるべきだ。選挙での政党選択のもっとも大きな評価基準にしなくてはならない。

 

 ウクライナの悲惨な状況に怒りを覚える人が、一方ではボクシングの村田の試合に興奮し、MLBの大谷や鈴木のホームランに胸を躍らせ、ロッテの佐々木の快投に目を見張る。これはわたしの姿でもある。災難は自分に降りかからないうちは他人事なのだ。自然災害や事故や事件で毎年多くの人が犠牲になっている。わたしたちはそれに胸を痛め出来る限りで援助をしたとしてもそれだけで、所詮は自分の生活が第一なのだ。こんなことは分かっていたのだが、ウクライナの地獄の様な惨状を見てあらためてそんな自分の心持に気づかされる。自分は何と無力で身勝手だと感じてしまう。

 

 ロシアのウクライナ侵攻は普段わたしたちが忘れている、または意識的に避けていることを思い出させた。近所に暴力的で危険な人物が住んでいたら引っ越せば良いだろうが、国は引っ越すわけにはいかない。危険な人物が好き勝手なことをしてこないようにするにはどうすべきなのか、難しいがもう避けていることは出来ない問題だ。軍備を強固にして自らの生活を守る気持ちを持つこと。日本の安全を求めることは他人事ではない。他人事だと思っているうちにそれが自分のことになっていたという事態は避けたい。わたしはこの国が他国に蹂躙され国民が傷つけられるのを手をこまねいて見ていることは出来ない。そうなる可能性を小さくするするためには出来る限りのことをしたいと思う。 

プーチンを非難するだけで良いのか

 プーチンウクライナ侵攻は明らかに愚行だが、ロシアそしてプーチンを取り巻く現状を打破するために行ったという観点から見ると、単に非難すれば良いと いうものではないように思える。難題が山積し、その解決が出来ない状況はロシアだけではないからだ。米国も日本もEU諸国も同じような状況にあるが有効な手を打てていない。解決のために武力を使わないという点では理知的だが、トランプ前米国大統領のようにプーチンの今回の行為を天才的だと評する指導者もいるから大差はないのかもしれない。

 世界の多くを覆っているのは温暖化による自然災害の頻発と激化と、貧富の差の拡大による社会の分断、経済活動の停滞という資本主義経済の限界だ。そして資本主義ではない国の経済は一層低迷している。そんな状況下で自由主義陣営と強権国家の対立が起こっている。強権国家は地球共通の問題に対する対処より自国の問題の解決を優先する。今回ロシアは問題解決のために最も過激で自分本位の手段を選択し、核使用も辞さない姿勢さえ見せて恫喝しているのだ。

 

 これは何としても止めさせなくてはならないので、日本が自由主義陣営の一員として強力な非武力的手段をとるのは当然だが、それだけでは日本は現在の苦境から脱出はできないと思う。世界が様々な面で変化したために起こっている諸問題に向き合おうとしていないからだ。日本では産業構造の転換が進まず経済が停滞し、経済を支える中産階級が疲弊し、政府の無責任な経済・福祉政策の結果、膨大な財政赤字を抱えている。中国、ロシアなどとは領土問題でもめている中で軍事的な威嚇を受けている。世界的な変化の下で、従来の政治・経済のシステムが有効に機能しなくなっているのは明白なのにそれを議論せずに、目の前の出来事への対処に汲々としている。目の前の問題への対処は大切だが、そのもとになっている本質的な問題を解決しようとしなくては事態の悪化は防げない。

 将来中国がロシアのような行動をとった時はどうするのか、ロシアが北方四島を返すことを期待できるのか、こうした問題になると野党もマスコミも思考停止のような状態になり、現実的な分析ではなく、非現実的な理想に依拠した願望に基づいた議論にしがみつく。一方で保守派はそうした非現実派を糾弾しながらこれも必要以上に強硬になる。柔軟で現実的な思考での議論がほとんどなされないのだ。これからを担う若い人への教育制度の改革も進まず、日本の若者は国際性のなさで世界から取り残されそうになっている。どうしたらこの国を維持し発展させてゆけるのか政治家は国民が納得できる案を議論し、提示する義務があると思う。与野党ともにコロナ禍でのポピュリズムからくる無思慮な経済補助や、石油製品への価格補助などの小手先の政策へは熱心に議論するが、この国の将来の安全と発展に関する骨太な議論はしない。

 

 今こそそんな議論をする時だと思うのだが、参院選を前にしてそれでは票が取れないと思っているのだろうか。こうした議論が最も大切だと国民を納得させるのも政治家の仕事のはずだ。国家とは何によって作られ維持されるのか。多民族なのか、単一民族なのか、そもそも民族は何で規定されるのか、それとも地理的要因がより重要なのか、国民に対して話すべきことは多い。こうしたことが明確になってこそ国をどう守るのかについて、足が地に着いた議論が出来るはずだ。ロシアや中国のいいなりにならないためにも政治家にこうした点への意見表明を要求する。また参院選にはこうした気持ちで一票を投じようと思う。