ロシアの暴力に想うこと

 最後にブログを書いたのが2月27日だからほぼ2か月ぶりの記事になる。この最長のブランクの原因はやはりロシアのウクライナ侵攻だ。他国に攻め込み無慈悲に人を殺戮することにショックを受けたのは当然だが、わたしが無力感に陥ったのは次の二つの理由からだ。一つは核攻撃の可能性を示すことが相手国やその支援国への威嚇に有効なのが分かったという事実、二つ目はウクライナの悲劇に胸を痛める気持ちに偽りはなくてもやはりそれは他人事だという現実、ある種の後ろめたさを確認せざるを得なかったことだ。

 

 圧倒的な力で暴力をふるう相手には弱者は従わざるを得ないということは今でも変わっていない。二つの世界大戦を経て、武力や暴力の行使は抑制する知恵が共有されてようになっていたのかと考えていたがそれは幻想だったようだ。ロシアに対する各国の対応を見ても、多くの国は何が正義かではなくどうすれば自分の利益になるかで行動をしているようだ。これでは強いものに付こうという暴力団の勢力争いと変わらない。 日本の政治家もマスコミもいい加減夢見るような平和論は卒業して、現実に即した外交、防衛政策を議論すべきだ。中国や北朝鮮の動きを見ても核保有の議論は避けられない。検討しているうちに手遅れにならないように早急に必要な準備を始めるべきだ。選挙での政党選択のもっとも大きな評価基準にしなくてはならない。

 

 ウクライナの悲惨な状況に怒りを覚える人が、一方ではボクシングの村田の試合に興奮し、MLBの大谷や鈴木のホームランに胸を躍らせ、ロッテの佐々木の快投に目を見張る。これはわたしの姿でもある。災難は自分に降りかからないうちは他人事なのだ。自然災害や事故や事件で毎年多くの人が犠牲になっている。わたしたちはそれに胸を痛め出来る限りで援助をしたとしてもそれだけで、所詮は自分の生活が第一なのだ。こんなことは分かっていたのだが、ウクライナの地獄の様な惨状を見てあらためてそんな自分の心持に気づかされる。自分は何と無力で身勝手だと感じてしまう。

 

 ロシアのウクライナ侵攻は普段わたしたちが忘れている、または意識的に避けていることを思い出させた。近所に暴力的で危険な人物が住んでいたら引っ越せば良いだろうが、国は引っ越すわけにはいかない。危険な人物が好き勝手なことをしてこないようにするにはどうすべきなのか、難しいがもう避けていることは出来ない問題だ。軍備を強固にして自らの生活を守る気持ちを持つこと。日本の安全を求めることは他人事ではない。他人事だと思っているうちにそれが自分のことになっていたという事態は避けたい。わたしはこの国が他国に蹂躙され国民が傷つけられるのを手をこまねいて見ていることは出来ない。そうなる可能性を小さくするするためには出来る限りのことをしたいと思う。