難しい問題の割り切り方

 ロシアのウクライナ侵攻の終結が見通せない中で、安倍元首相への襲撃事件が起きた。単なる政治テロなら事態はもう少し簡単なのだろうが、宗教の問題が絡み犯人の母親が宗教団体へ常識を超えた額の献金をしていたこと、その結果犯人や兄弟がひどい経済的苦難を受けていたことが分かり、犯人にも同情の余地があると報じられると問題は複雑になった。自民党を筆頭に多くの政治家がこの事件の元になっている旧統一教会と関係を持ち支持するような姿勢をとってきたこと、そして安倍元首相がその中心にいたことで、本来なら取り締まられるべき統一協会の行為が見逃されてきたからである。マスコミもテロ殺人はまったく擁護できないが、犯人もある種の被害者だという論調に代わってきた。

 

 わたしもこの犯人を単純には非難出来ない。わたしも同じ境遇に置かれれば実際テロ行為行うかどうかは別にして、統一教会やそれを支持するかのような政治家達には憎悪の念を抱いただろうと思うからである。ウクライナの人々への攻撃に胸を痛め、この犯人の境遇にもやるせない思いを抱きながら、それを自分でどう処理すべきか分からない状態だ。さらに中国も近い将来台湾に侵攻しそうだし、そして日本がそれに巻き込まれるリスクも高いなどと考えると完全に思考のキャパシティを超えてしまい途方に暮れる。こんな時人はどう物事を整理し生活を続けていけばいいのだろうか。

 

 週刊文春の連載エッセイ「夜ふけのなわとび」で林真理子はかつて雇ったお手伝いさんに統一教会の人がいたことを明かし、こう結んでいる。’世の中にはどうしても宗教を必要とする人間がいるのである。そうした人間がいる限り、宗教をめぐる悲劇は起こる。信じるものと信じないものとを、たとえ家族でも真っぷたつに分断させるのだ’

 

 一流作家だけあり見事な人間分析だと思う。人間とはそういうものだという割り切りは真理を含んでいる。でもわたしにはこれで終わってしまっていいのかという思いが残る。これだけ書いて終わると、読み手の中には人間にはこういう側面があるから色んな事件が起きても仕方ないなと、考えてしまう人が出てくるのではないか。そうなると何故こんなことが起きたのだろうか、どうしたら防げるかとかに考えが進まず、一種の思考停止になってしまう。テレビや雑誌で難しい問題を見事に割り切ってくれる人の話を聞いたり読んだりすると、人は何かスッキリした気持ちになり安心するのだが、それだけでは事態の解決や改善には役立たない。

 

 林真理子の割り切りは見事だけれどもいろんなことに使えるから怖いのだ。例を挙げてみよう。

’世の中には人の上に立ち命令を下すことが自分の使命だし大切なことだと考える人間がいる。一方で世の中には強い人に従って生きるのを好む人間もいる。従う人たちは上に立つ人の指示で動き、その中で上の人に取り入ろうとする人は指示を完璧に実行したり、場合によってはそれ以上の行為を忖度して行う。そこでは指示された行為の是非を十分に考えられていない’

 

’強く尊敬される国になるには何より力が重要だと考える人間がいる。その力とは軍事力だ。それを使用して他国を従わせることが自国に繫栄につながる。戦争をして一般市民が死んでもやむを得ないと考えている。それは国のためというだけではなく、戦争を仕掛けた本人の名誉や富のためでもあるのだが、それには気づかないかそうした振りをする。そしてこうした指導者は往々にして国民の支持を得るのだ。残念だがこうした要素が人間にはある。だから古来戦争がなくならない’

 

 こうした例はいくつでも作れる。そしてそれは説得力さえ持つ。何故ならそれは人間の本質的な真実を伝えているし、それを求める人の救いにもなるからだ。そう、宗教や政治団体にも共通するところだ。

 

 こうした問題の割り切りがダメだというのではないが、同時になぜこんなことが起こるのか、どう対処したら解決や改善につながるのかを議論しないとまた同じことを繰り返してしまうだろう。宗教とか戦争とか国家とか自由とかとても大きな問題だから答えなどが簡単には見つからない。しかしある種の割り切りで安心して問題の本質を考えようとしなかったら事態は悪化するばかりだろう。わたしが嫌な気分になるのは、今の世の中でそうした議論を避けるのがスマートだという風潮があることだ.。人々を引っ張ってゆくべき政治家や官僚さえもそうした議論をしないのか出来なくなっている感じがする。

 

 教育を通して若い人たちが困難な物事を正面から見つめ、考えてゆく気持ちを持つようにすることが大切だ。教育の重要性が叫ばれることは多いが、そのほとんどが底の浅い技術的な問題の議論だ。実用的な英語の習得、ITリテラシーなどだ。国家とは何か、人種とは何か、民主主義と全体主義、自由と権利、宗教の対立、こうした問題の基礎を小、中、高で議論することが中長期的に社会のためになると思うのだがそんな動きは少ない。むしろそれを避けて知識の習得に力を入れたがる。考えることをやめさせようとしているようにさえ感じる。

 

 今回の事件のもとである宗教についても、人はどんな時に宗教にすがろうとするか、宗教のどこに救いを感じるのか、宗教団体から求められる献金や奉仕にどう対処するか、カルトとは何かなどを若い人たちと考える場を学校で持つことは意味があるし、実行は可能なはずだ。教育行政を司る官僚のやる気と現場の教師へのサポートがあればできると思う。多分日本は明治初め以来の困難に向かい合っている。あの時に新しい国家の基礎を築いた人たちがいた。そうした高い志を持った政治家や官僚はいないのだろうか。内閣改造が行われたばかりだが希望の光は見えては来ない。老人はため息をつくばかりだ。