翻訳は悩ましい

 少し前に読んでいたペーパーバックの小説で、主人公が次のようにつぶやくシーンがあった。
sometimes if you want to know for sure whether the stove is hot, the only way to find out is to touch it.

この英語自体は受験英語のようなもので高校生にも訳せるものだろう。英文和訳的に直訳すればこうなる。 'もし時にストーブが熱いかどうか確かめたいのなら、確かめる唯一の方法は触れてみることだ’ まあいいたい事は分かるし試験でも点は取れるだろうが、もしこれが翻訳と言うことなら落第だろう。せめて 'もし本当にストーブが熱いかどうか確かめたいなら、触れてみるしかない' くらいにはしないとまずい。しかしこれでも小説の流れというか、情景に相応しいかどうかは分からないし、読者に主人公の気持ちが正確に伝わるかどうかもわからない。この台詞は、主人公が疑わしい人物を追い詰めるために、大胆な計画を実行しようとして緊張している状況でのものだ。

 パンチを利かせるなら '虎穴に入らずんば虎児を得ず' と訳すのもありかもしれない。短くて歯切れが良い。しかし西洋のハードボイルドに中国のたとえを使うのもどうかなという気がするし、若い人にはピンと来ないかもしれない。

  主人公の気持ちをもっと説明しようとするのなら次のようになる。 '事件を解明しようとするなら、やってみるしかない', '核心に近づこうと思うなら、リスクをとるしかない’これらは分かりやすいが、作者がわざわざストーブのたとえを出したのに、ここまで意訳して良いのかという疑問が残る。要するにどれが一番いいとは簡単に言えない。というのは良い翻訳とはどうあるべきかという根本的な問いにかかわっているからだ。論文や経済記事は誤訳をしなければ、それほど訳自体が問題にはならないかもしれないが、小説はそうはいかない。(もっともベストセラーの経営書などは急いで翻訳を出版するせいか、そうとうな誤訳があるそうだ)

 翻訳会社を立ち上げ経営する柴田耕太郎氏が書いた'翻訳家になろう'という本は翻訳の世界の奥深さを興味深く描いている。翻訳といっても商業英語、工業英語、小説とジャンルは多岐に及んでいるし、英語と日本語ではそもそも言語の構造が全く異なるのだから、そのまま訳しても内容が分かるものにはなりにくい。小説などでは意訳しなければ通じないことはしばしばだ。日本人の作家が日本語で書いた小説を読んでも、良く分からないところがあるのだから、外国語の小説では尚更だ。それを日本語に訳すとなると外国語の能力は当然のこととして、理解力、想像力、そして日本語の高い能力が必要だ。

 上記の本には著者が考える翻訳についての色々な原則が語られている。その一つが'翻訳は訳される言語のネイティブ・スピーカによるべき'として漱石の小説の英訳についてのエピソードを紹介している。志村正雄という人がアメリカの大学で日本文学を教えた時に、マクラレンという人が訳したものを指定したが数がないので、多くの学生は図書館で近藤いね子という後の津田塾の学長が訳したものを見つけて読んだ。そうするとマクラレン訳を読んだ学生は漱石に興味を持って他の本も読みたいと言ったのに対し、近藤訳を読んだ学生は二度と日本の小説は読みたくないと言ったそうである。

 この話は訳される言語のネイティブ・スピーカが訳すべきという原則だけではなく、もっと広い意味で翻訳とはどうあるべきかを語っているようにおもえる。すなわち良い翻訳とは読者が読んでいて楽しい、早く次のページが読みたい、この著者の他の本も読みたい思わせるものではならないということだ。小説の翻訳なら、元々外国でベストセラーだったり、評判が高いので、日本語で出そうというわけだから、直訳に近いものでも面白いだろうと考えるかもしれないが、上述したようにそう簡単ではないのだ。ストーリーだけではなく、原書に描かれている主人公の魅力や会話の面白さ、文章のセンスやリズムまでを出来るだけ生き生きと正確に読者に伝えることが求められる。乱暴に言えば誤訳を恐れてはいられない、ぎりぎりの所での勝負なのかもしれない。

 翻訳の難しさの例として著者がもう一つ上げているのは、ディケンズの'ボズのスケッチ’という短編小説の訳についての議論である。議論といっても岩波文庫から出ている藤岡啓介の訳を英文学者の原英一が悪役、誤訳と批判したものである。その批判の内容について、著者が他の英文学者と共に検証している。小説の冒頭の原文を示し、それに対応する藤岡、原両氏の訳を載せているので 大変興味深い。藤岡は翻訳家で、翻訳会社を経営するとともに工業英語の基礎を作り、この分野の辞書を数多く世に出したそうである。原は当時、東北大学の教授でその後東京女子大の教授になっているそうだ。

 原の批判は激烈でこうまで書いている。’・・・・おそるべき悪訳で、失望甚だしかった。あまりにも「見事な」誤訳だらけなので、ディケンズの英語をまともに読めない人間が訳したことが歴然としている。さらに悪質なのは英語がわからなければわからないと認めればよいものを、自分勝手な文章を創作してごまかしていることだ。これはまことに始末が悪い。原文を知らずに読んでみると、いかにも達者でなめらかな日本語なので、あたかもディケンズの作品の生命を表現することに成功しているかのような誤解を与えてしまうのだ。こんなものが岩波文庫に入っているとは信じがたい’まあ第三者として読むと、この批判の文章そのものが感情的で品がなく、旧帝大の英文学の教授のものとは思えないのだが。

 両氏の訳について専門家がどう評価しているかは長くなるのでここでは書かないし、専門家ではないわたしには評価できない。ただ上記の批判をした原のディケンズ訳は、ディケンズの本をもっと読みたいと思わせるものでは全くなく、日本語として意味不明のところさえある。原文に忠実であろうとするあまり、もう一歩進んで内容を解釈し、読者が読んで分かるものへ意訳をするのを意図的に避けたとしか思えないものだ。原はそれを学問的厳密性とか原文への忠実さという言葉で正当化しているのかもしれない。学者は読者を第一に考えなくてもよい、それが許される職業だと考えているのだろう。ましてや翻訳はどうあるべきかなどとは考えもしないのだろう

 上記の批判でも、原自身が’いかにも達者でなめらかな日本語’と言っているように、藤岡訳ははるかにこなれている。’こんなものが岩波文庫に入っているとは信じがたい’というのがこの文章を書かせた原動力なのだろう。翻訳家は学者、特に大学教授からはステイタスが低い人間と思われているらしく、翻訳家が学者の誤訳を指摘すると’大学教授のわたしに、お前のような翻訳屋が何をいう’などと罵倒される例が柴田の本には載っている。

 第三者の私には、翻訳家は市井の病院の外科医で、大学の英文科教授などは象牙の塔にいる医学研究者に見える。手術をしたら、実際どちらが上手いというわけではない。大学教授だからと言って手術の腕が高いのとは言えないのは明らかだ。ノーベル賞をとった山中教授は手術が下手で、'じゃまなか'と言われたので研究者になったと言っていた。あのくらい一流になると正直だし、自分の欠点も隠そうせず、また他の人の能力を正当に評価できるのだろう。そう翻訳者は医学研究者ではなく、手術の上手い外科医とか患者の気持ちの分かる臨床医のようなものだ。そういう医師たちの勲章は、学会での評価や名声ではなく、患者からの感謝だろう。翻訳家の勲章は読者の一言'面白かった’だろう。