小学生の英語論議(1)

 5月14日付の朝日新聞(驚くべきことにまだ購読しているのです)に「小学生の英語」という記事があった。子供への英語教育で有名な関東学院教授の金森強氏に対するインタビューでこれがとても示唆に富んでいるというか、わたしと同意見なので強く共感した。小学生に英語を教えることについて金森氏はこう言っている。「わかってほしいのですが、週に数時間やったくらいで外国語の力はつきません。スポーツや楽器と同じです。小学生から始めたら子供たちの英語力が一気に上がるなどという幻想はどうか持たないで下さい。むしろ中学校の方が大切です」英語を学びそれなりのレベルに達した人たちの多くはこう考えると思うのだが、なぜ政治家や経済人の一部の人たちは、小学校から始めたら英語ができるようになると思うのだろうか。また世の中の多くの人たち(子供を持つ親は特に)はなぜこれに強く同調するのだろうか。

 小学校から英語の授業を始めたからと言って英語が出来るようになるわけではない、これは多くの英語の達人が言っていることだ。(わたしのように大して上手くない人間で英語に苦労したものでもそう思うのだ)ピアノや水泳も小さいうちからやれば、やらないよりもいいかもしれないが、上手くなれるかどうかは分からない。上手くなれるかどうかは本人の努力とセンスの問題だからだ。英語も全く同じなのに、英語教育になると国を挙げての早期開始とネイティブスピーカーの英語に耳を慣らせの大合唱だ。

 その根底には中高6年間英語の勉強をやり、小難しい受験英語を乗り切ったのに、簡単な言葉さえ聞き取れないことの悔しさがあるのだろう。それはわたしも理解できる。仕事で英語を使ってきたと言っても、10人くらいの外国人の中に日本人一人で会議に参加するときには、いつももっと英語がきちっと聞き取れたらという思いを持っていたからだ(議論が白熱すると特にそう思う)。

 海外勤務がないのに外資系石油会社で幹部社員になったわたしは稀有な例だと思うが、やはり英語は必要で何かというとアジアパシフィック(AP)のマネージャーたちとミーティングや電話会議があったし、直属の上司はヒューストン在住のアメリカ人なので、週に一度は電話で業務のフォローアップがあった。そういう時にどうにかやってこれたのには色々な理由があるが、その一つとしてとても重要なのは総合的なコミュニケーション能力で対応したことだと思う。これは相手が理解しやすいように話を構成したり、明快なロジックを使ったりすることや、議題について事前に深い考察をしておくことを意味している。これは話すだけではなく相手の英語を聞く時にも有効だ。

 とはいっても英語が母国語か準母国語の連中との議論だから業務上の高度な英語を理解するのは簡単ではなく、英語のスキルの問題は避けられない。この点をクリアできた大きな理由は彼らがわたしに分かるように話してくれたことだ。別にゆっくり話すとか、やさしい言葉を使うというのではなく、彼らも会議では正しい構文を使い明快な論旨の英語で語ってくれたという意味だ。APのマネージャーたちは日常的に英語を使う(母国語または準母国語)ので流暢だが、発音はかなり多様でアメリカ人の発音とは違う。そのため議長役のアメリカ人マネージャーは議論を整理しながら内容を確認する発言をするのも助かった。だから会議では大きな問題がなかったが、そのあとの食事会や飲み会になると特に欧米人同士が話しているのは半分もわからなかった。そんな時彼らは会議で話すような言い回しを使わずに、日常的な話し方をしたからだ。しかしわたしが英語で業務をこなすという基本的な目標は達成していたのは事実だ。

 わたしは昔ながらの方法で英語を勉強した。学習の大半は読むことで書くことの勉強ははるかに少なく、聞くことはもっと少なかった。それでもわたしが通った学校はキリスト教系で英語教育に熱心な方だったからきちっとした基礎(特に読むことや文法について)はついたのだと思う。わたしが言いたいのはわたしのような学習者でも、すごく上手くはないが英語で仕事をできるレベルに達するということだ。今になって中学高校時代の勉強法を反省するとすれば、もっと聞くことに力を入れれば良かったというくらいだ。

 こうした経験から言うと小学校から英語を学ばせコミュニケーション能力を高めるといっても、具体的に誰に対しどの程度の英語能力をつけようとしているのか明確にしないと問題だろう感じざるを得ない。上述したようなわたしのレベルで良いのか、もっと高いレベルなのか、そんなレベルが必要なのはどんな職業の人なのか、そんな職業に就く人が全体の何%くらいいるのか、そうしたことがさっぱり議論されずにあいまいに英語が出来るような学生を育てたいと言っても効率の良いやり方だとも思えないし、上手くいくとは思えない。わたしのレベルなら昔ならではの方法に聞く訓練を取り入れれば可能なのはわたしが証明している。いかにグローバルな時代だと言っても、わたしのように英語を使う必要がある人がどの程度いるのだろうか?

 通訳の第一人者で英語研究者の鳥飼玖美子氏はその著書「国際共通語としての英語」の中で文部科学省の学習指導要領をあげてコメントをしている。中学校を例にとると指導要領には4つの目標が記されている。
1.初歩的な英語を聞いて話し手の意向などを理解できるようにする。
2.初歩的な英語を用いて自分の考えなどを話すことができるようにする。
3.英語を読むことに慣れ親しみ、初歩的な英語を読んで書き手の意向などを理解できるようにする
4.英語で書くことに慣れ親しみ、初歩的な英語を用いて自分の考えなどを書くことができるようにする

 これにたいして鳥飼氏は’英語で「話し手や書き手の意向を理解」できて「自分の考えを話たり書いたり」できるというのは、相当な英語力です。中学を卒業する段階での数値目標は「英検三級程度」となっています。「英検三級」を持っている中学生はいますが、いくら英語が得意な中学生でも、三年生で「英語で話し手や書き手の意向を理解し、自分の考えを話したり書いたり」できるとは思えない’といったことを書いている。

 さらにこうも書いてている。’小学生の英語活動にしても、週一回学習担任と(多くは業者委託の)外国語指導助手(ALT)と活動をすることで「日本と外国との生活、習慣、行事などの違いを知り、多様なものの見方や考え方があることに気付く」というのは、極めて野心的な目標だと言わざるをえない’ ’小学校の英語活動の定番とされるゲームと歌と踊り、そしてちょっとした英会話ごっこは、楽しさを体験するすることはできるが目標とする「コミュニケーションの大切さを知る」ことまではいかない’。
 要するに文部科学省が英語能力(特にコミュニケーション能力)を高めようとして掲げている’あるべき姿としての目標’は、英語教育の現状なり実現可能性をまるで反映していないのだ。そしてこれを基にして英語教育が実践されていくのが現状で、多くの父母はその問題点をまるで理解せず、自分の子供がネイティブスピーカーのように話をするのを夢見ているのが現在の状況だろう。先に紹介した金森氏も初めは小学生の英語に反対だったが、導入にかかわり子供たちが外国語を生で聞き言葉を覚えることを楽しむ姿を見て、子供たちに新たな体験を与える意義を感じて教える意味があると思ったと言っている。しかしあくまでも違う言語に接するという新しい体験のためで、英語の習得のためではないと強調している。 

 鳥飼氏は英語教育において「コミュニケーション能力を高める」とよく言われるが、そもそもコミュニケーションとは何かが明確になっていないと疑問を呈している。氏はコミュニケーションには読み書きや沈黙さえ含まれるとし、言葉と文化が密接に絡み合うことでコミュニケーションが成り立つのであり、単なるスキルではないと言っている。これはわたしが言う外国人との会議では総合的なコミュニケーション力が重要ということ、そしてそれは単に語学の問題ではないということに近いと思う。

 現在の英語教育の問題は、英語習得の正しい方法への考察や、対象とする人物像と求める英語力の明確化や、コミュニケーションの定義もないままに、英語のコミュニケション能力を高めようとして、早期に英語に取り組むべきだとしたことにあると思う。子供に早くから英語を学ばせることよりもっと大切で基本的なのは日本語でのコミュニケーション能力を高めることだろう。日本語できちっとしたコミュニケーションが出来なければ、英語でコミュニケーションなどできないからだ。ネイティブスピーカーのような発音をまねて’Hi! Jimmy, how is it going?'と言えるようになるのが英語のコミュニケーション能力ではないはずだ。日本語で明快で論理的な話をできない人は、流暢な挨拶をしても話が続かず、'uh-huh'などと言って誤魔化すだけだろう。

 グローバルな時代で英語が以前よりはるかに必要になったのは事実である。そしてそうした時代にあった英語の教育の仕方があるのだろう。単純に子供の時から英語を学ばせるというのではなく、こうした時代にふさわしい教育方法、そして子供を持つ親(祖父母)が持つべき姿勢があるはずだ。次回はその点を議論したい。