伝えたいものがある時に、話し、書く

 B級グルメを競うB-1グランプリ2013で福島県浪江町の'なみえ焼きそば'が1位になった。表彰式での代表の人の挨拶がとても印象に残った。要旨は’つらいことも多かったが、今日のように良いこともある。一位になれたし沢山の人と知り合えた。これからも前向きに頑張っていきたい’という簡単なものだったが、しっかりとした話振りの中に優勝の喜びと大震災の悲しみから立ち直ろうという決意が伝わって来たからだ。この人には伝えたいことがあり、それを自分のものとしてさりげなく話すことが出来るから、聞く人の心を動かすのだ。人に向かって話をするのは、伝えるに値するものをもってこそ意味を持つ。テレビに出て意味もないことを話し続けるタレントや評論家の大半は、何も伝えるべきものを持っていない。黙っていた方がよほどいい。

 このことはわたしの愛読書の一つの丸谷才一の「文章読本」を思い起こさせた。この本の最後は以下の文章で終わっている。
「石川がここで語ってゐるのは、書くに価する内容がなければ字を書いてはいけないといふことである。この教訓は、文章においてさらによく当てはまるだらう。すなはち、記すに価することがあってはじめて筆をとれ。書くべきこと、語るべきことがあるとき、言葉は力強く流れるだらう。これこそは人間の精神と文章の極めて自然な関係にほかならない」 (上記石川とは石川淳のこと)

 まったくもって正論であり見事な文章である。わたしもこうでありたいと思ってはいるが、そうなるとこのブログなど書けなくなってしまうのが凡人のつらいところだ。まあ、日本の知性ともいうべき丸谷先生の言うことが出来なくても仕方ないのかもしれないが。


 丸谷才一は同じことを「思考のレッスン」という本でも論じている。具体例を出しているのだがこれが非常に面白い。例の一つは元西鉄ライオンズの強打者、豊田泰光毎日新聞の書評欄に書いたことだ。彼は元西鉄監督の三原脩についての本を三つあげて欲しいと言う依頼に対し、三冊の本を紹介しているのだが、それが自らが体験したある一試合に話を集中して書かれている。本人でなければわからない、またそれだけに三原脩の人物評として説得力がある内容になっているとして、一部を紹介している。

 また内容のない文書の代表として小学校一年の国語の教科書の例をあげている。以下の二つとも採択率が一位と二位だそうだ。
 「はるの はな/あおい あおい/はるの そら/うたえ うたえ/はるの うた」
(教育出版『国語一』)
 「みんな/あつまれ/もりの なか」 「あおい うみ/みつけた/なみの おと/きこえた/みんな/はしれ」 (光村図書『国語一』)

 谷川俊太郎がこうした教科書を批判しているとして彼の言葉を載せている。
 「作者が全然見えてこない」、「無味乾燥といえばいいか、なんの表現にもなっていない」、「学校に入って子どもが最初に出会う日本語がこんなチープな言葉でいいものか」
 丸谷才一は「言うべきことが何もない人たちが、言うべきことが何もなくて書いた文章がこれなんです」と言っている。

 そして谷川が安野光雅大岡信たちとつくった小学一年の国語の教科書を紹介している。以下はその「にほんご」の最初の文章である。

  ないたり、ほえたり、さえずったり、
  こえをだす いきものは、
  たくさんいるね。
  けれど ことばを
  はなすことの できるのは、
  ひとだけだ

 もう多くを記す必要はないだろう。(縦書きだったらもっと良いのだが)
 最後の文章の見事さにわたしは不覚にも涙を流してしまった。ひらがなの短い文章だが、そこには言葉に命をかける人の気迫と日本語の美しさがこめられている。子供に美しい文章を学んで欲しいという思いがある。

 '子供には違いなんて分からないのだから、前の二つの例でも十分だろう’と言う輩もいるかもしれないが、それは教育の本質を理解できない言葉だ。教育とは安易に読み書きや計算を教えることではなく、子どもたちを出来る限り上質で本質的なものに触れさせることから始まるのだと思う。そして最も必要なのは美しく正しい日本語で書かれた、意味のある文章だ。谷川たちの教科書の文章はその信念に基づいている。その強い思いにわたしたちは心を揺さぶられる。