コミュニケーション手段としての体罰

 大阪の桜宮高校のバスケットボール部のキャプテンが顧問の教師の体罰を苦にして自殺するという事件が起きた。全く問答無用の誤った指導だと思うが、この教師を熱心でよい指導者だと擁護する声も少なからずあるという。過去に同高校のバスケットボールが全国大会で活躍したという実績を評価しているのだろう。

 なぜこんな愚かな指導をするのか、わたしなどは信じられないのだが、これを行う人、そしてそれを擁護する人には成功体験があるのだと思う。体罰を加える指導者は、それにより部員やチームが発奮し、十分に力を発揮して、大会でよい成績をおさめた経験があるために、非常に効果のある教育方法だと信じているのだろう。それを擁護する人たちも、体罰を受ける側から同じような体験をして、その意義を感じているのだろう。

 殴るという行為はそれによって何らかの気持ちや思いを伝えようとするのだから、コミュニケーション手段の一つと考えてよいだろう。普通なら言葉でいうことを殴ることで伝えようとするわけだ。なぜ言葉では駄目なのか?殴ることが言葉では伝えるのが難しいことを可能にすると信じているからだろう。言葉で伝えられないこと(伝えにくいこと)があるのは理解できる。母親は言葉の代わりに抱きしめることで子供に思いを伝える。愛し合う人たちでもそうだろう。体罰を擁護する人たちは同じ効果を考えているのだと思う。

 しかしスキンシップと体罰を同じレベルでとらえるのは間違いだと思う。触れられることで癒されるのと、苦痛や場合によっては重大なけがにつながる体罰は本質的に違うことだ。もし二人の間で同様の権利があるなら、すなわち生徒の方にも殴り返すことが認められているなら、体罰もコミュニケーションの方法の一つと考えられるかもしれない。
 しかし体罰は教師なり先輩が一方的に暴力を振るう権利があるという前提のもとで行われる。それはフェアではないし、言葉で伝える能力がないことを、要するにバカであることを示しているだけだ。体罰が有効だと信じて行っている人に言いたい。もしそうした指導方法を続けたいなら、殴り返す権利を生徒にも与えてからやれと。もちろんもっと上の責任者(校長とか学長)もそれを学生の権利として認めなくてはいけない。

 殴り返される心配をせずに殴るという行為はきっとやめられないくらい魅力的なのだろう。人間には根源的に暴力的な要素があるから、何の心配もなく暴力をふるえることは、殴る人間には陶酔的な充足感を与えるのだと思う。そんなことはない、泣くような気持で生徒のために殴っているのだというような教師は信用できない。人間として信用できない。自分の心さえ冷静に見つめられない人間が教師であってよいはずはないだろう。

 わたしは運動部にいた経験は短いから殴られたことはないが、中学生の時に先輩に意見して2時間も正座させられたことがある。今思い出しても不快なことだが、なぜ先輩と言うだけでそんな権利があるのか分からなかった。

 さすがに会社では体罰はなかったが、やたら怒鳴ったり、文句を言うバカな上司はいた。そんな連中はそうした管理方法をとることがリーダーシップの強さを示すものだと考えていたのだと思う。それはリーダーシップとは全く無縁のもので、しいて言えば強権的なマネジメントだと言えるだろう。これもまともなコミュニケーションをする能力がないために行われるのだ。

 体罰をする教師を擁護する声の中にもリーダーシップがあるからというのがあるようだが、それもリーダーシップとは全く無縁だ。ビジネスと同じ言い方をするなら暴力的マネジメントというのが近いだろう。自分に与えられたマネジメントの権限を行使するために暴力を使うという最低の行為だ。最近話題になるブラック企業の管理と同じだ。どうも日本人はこうした暴力を容認する傾向があるようだ。昔の戦争映画や軍隊映画を見ているとやたらとそういうシーンが出てきて厭になるが、今でもそうした風潮がなくなっていないのかもしれない。

 プロスポーツの有名監督でも体罰というか暴力で有名な人がいる。そういう監督は絶対雇わないというルールを作るのも、体罰・暴力礼賛をなくすためには大切なことだと思う。