忘年会 酒抜きで朝、昼に

 12月12日の日本経済新聞に今回のタイトルの記事が載っていた。早朝やランチタイムに酒抜きの忘年会を行う職場が増えてきたという。同じ職場や会社でも様々な勤務形態がある場合、社員一同が夜集まるのは難しく朝とか昼の方が集まりやすい事情があるらしい。また子育て中のママやアルコールな苦手な社員にも好評だそうだ。多様化する働き方や個人の嗜好に合わせて従来のやり方を見直すよい例といえると思う。

 日本は職場の仲間と酒を飲むことがとても多く、それがコミュニケーションの向上やチームの団結につながっていることは事実だ。そのために企業も業務の節目節目の集まりでは、その費用を負担することもある。一方でこうした時間外の付き合いや酒席を好まない従業員もいて、彼らは義理で参加するというわけだ。もちろんどんな社会でも社交は重要な活動で、人は社交を通じてお互いを理解し割ったり助け合ったりしている。ただ日本の場合はそうした社交が会社の仲間とのものに偏りすぎているのが特徴だ。欧米の会社もチームワークや社員の相互理解の重要性を強調しているが、個々人の生活が最優先で仕事はその生活を維持するための活動だ。会社のために残業や休日出勤をすれば、個人の時間の犠牲に対して金銭や代わりの休みで補償する。補償だから通常の労働の対価より多くのものを支払うことになる。

 だから仕事でもないのに就業後の時間を会社の集まりにほとんど強制的に参加するのは通常はありえない。もちろん職場に新人が配属されたり、転勤で新しい人が来たりすることはあるので職場で紹介することはある。そうした場合は10時ころに会議室やラウンジにお茶とクッキーやケーキが出て皆で食べながら挨拶をする。20-30分くらいのものだ。わたしも米国への出張の時何度かそんな集まりに遭遇したことがあったが、簡単だがみんな楽しそうでこれもいいなと感じたものだった。こう考えると朝や昼に行う忘年会も、会社とは別のプライベートを大事にする風潮が日本でも強くなってきた結果のように感じる。昔の職場での強い絆を懐かしむ人には物足りないかもしれないが、わたしは会社と個人の関係が日本でも欧米並みになってきたという意味で良い流れだと思っている。

 社会や人達がいろんな多様性を尊重するようななったのはとても良い変化なのは間違いないが、一方で漠然とした不安を感じることも言っておきたい。少数派・マイノリティへの十分な配慮は社会の優しさの証明であり、それは誇るべきことなのだが、あまりに優しさを重要視したり、追求するのは社会として健全なのだろうかと感じてしまう。付き合いたい男性は優しい人が一番だし、多くの親は子供に優しい人になって欲しいと答える。それは間違っていないので異議を唱えるのは抵抗があるのだが、本当にそれで良いのか思ってしまうのだ。

 そこには平和が一番、戦争反対といって思考停止になってしまう人たちと共通のものを感じてしまう。ほとんどの人が戦争は嫌だし平和が大切と考えているのだが(だからその主張に反対することはできない)、思想・宗教・経済等の対立で世界には暴力を伴う対立が少なからずあるのが現実だ。その状況で日本の平和と安全を守るにはどのような対応が必要なのか、そもそも日本だけの平和と安全が実現できればいいのか、または世界全体の平和などは可能なのか現実的なのかといった議論が高まらずに、多くの人達は戦争反対を声高に叫ぶと満足してしまう。欧米との軍事同盟に積極的に参加することは現在の世界の戦争状態を沈静化するのか過熱化するのか議論せずに、日本が戦争に巻き込まれるリスクを高めるのは反対だと言い続けるのはきわめて自己中心的なのではないだろうか。こんな問題に完全な正解などないのだが、いつ実現するかわからない理想論だけに固執するより、現実的で妥当な答えはあるはずだ。それを求める努力は大変でもしていかなくてはならないと思う。

 話を戻すと優しさの過度の追求にはそんな怖さが潜んでいるように感じるのだ。人間には優しさと同時に暴力的な要素があるのは否定できない。人によっては優しさより暴力の要素が大きいこともある。そうした暴力に対抗するのに優しさだけでいいのだろうか。権力を行使して独裁的な政治を行う人がリーダーになりそうな時が来たら、優しさ重視の社会は脆くて抵抗ができないのではないだろうか。そうした状況でも自分を取り巻く小さな社会の優しさに目が行くだけで、大きな社会的・政治的な暴力に対して感度の鈍い人たちが増えてしまうような気がする。海外勤務を嫌がる若者たちや、海外での研究を避ける若手研究者たちの話を聞くたびに、傷つくことを恐れる優しい若者を、そして今の平和な生活にしがみつこうとするひ弱さを感じてしまう。今の平和な生活を維持するためにはある種の力の行使が不可欠だという現実から目をそらそうとしているようだ。

レイモンド・チャンドラーがフィリップ・マーローに語らせたように「非情でなければ生きていけない、優しくなければ生きてく意味がない」(If I wasn't hard,I wouldn't be alive.If I couldn't ever be gentle,I wouldn't deserve to be alive)というのが永遠のかつグローバルな真実だ。日本だけが行き過ぎてはまずいと感じるのはわたしだけだろうか。