小学生の英語論議(2)

 グローバルな時代だから子供の時から英語教育に力を入れるべきなのか前回のブログで議論したが、今回はその議論をベースに今の時代にあった英語教育とはどんなものなのかを考えてみたい。

 前回の議論を整理しておくとわたし(及びわたしが紹介した英語教育の専門家たち)の立場は、小学生の時に英語を教えることは異文化、異言語に接してこれまでにない体験をするという教育上の意義はあるが、外国語(英語)が上手くなる効果は疑問だということだ。言い換えれば小学生への英語授業は様々な体験を積むための一環としてなら良いが、それを以て英語のコミュニケーション力を高めようなどと考えるのは間違っているということだ。
 
 翻ってわたしたちの世代の英語は本当に受験のための英語で、わたしのように小学校から高校までキリスト教系の学校に通ったものでもそう思うのだから、そうではない人たちが外国人が話すことがわからない、言っても通じないのは当然だ。しかし今は英語指導助手の外国人が多くの学校にいて授業も会話中心になっているからこの点は昔とは大きな違いだし、ヤル気のある人はテレビなどでも生の英語を聞くチャンスはたくさんある。だから今の若い人たちは60歳以上の人たちに比べて英語を聞いたり話したりするのははるかに慣れているはずだ。

 しかし若い人たちの英語力がめざましく向上したとは聞かないから、やはり問題はあるのだろう。これははっきりしたデータがないのでよくわからないが、会社時代の経験からわたしが感じるのは若い人たちの読み書きのレベルが落ちているようだということだ。環境に恵まれたせいか、わたしたちの世代ほど英語を一生懸命勉強していないのではないだろうか。(もちろんこれは全体的な印象で、帰国子女を含め出来る人のレベルはわたしたちの頃よりはるかに高い)

 もう一つ理由があるとすれば大半の人が英語を必要とする環境にいないことがあげられる。(これはわたしたちの世代も同じだ)グローバルな時代だと言っているのにおかしいじゃないかと言われるかもしれないが、大半の人にとって外国の情報が日本語で手に入れられるのは事実だ。そうなると隣に英語を話す外国人が住んでいるとか、クラスに何人か英語を話す外人がいるとかでないと英語が必要とは言えない。これはとても重要な点で、日本人の英語が上手くならないのは日常的に使わないというところにあると思う。

 たまに学校や語学学校の従業で英語を読んだり話したりしてもすぐに忘れてしまうし身につかない。ただグローバルな時代というのは昔よりはるかに多くの人がいつか英語を話さざるをえない環境に置かれる可能性があるわけで、そんな事態が起こるのはわたしたちの世代の何倍もあるといっても良い。しかし注意しなくてはならないのは、そんなことが起こりそうな人たちは都会の受験校などを除けば1クラス40人の中で10人もいないだろうということだ。小学校の英語の授業をそんな10人のためにやるわけではないだろう。だから何度も言うように英語が必要な人を育てたいなら中学からの英語をもっと充実するほうが良いのだ。特に義務教育ではない高校では聞くことにプラスして高度で実践的な英語を教えれば効果はあると思う。

 以前もこのブログで書いたがわたし個人の英語力、特に単語力は人文教養に偏っている。これは英語教育の目的の一つが英語を通じて英米の文化を学ぶことにあったからだと思う。確かに高校でサマセットモームを読むことは素晴らしいが、それは実践的ではないし、教師の趣味(大半の英語教師の)に沿っているだけだ。だからわたしはとても難解で抽象的な言葉を知っているのに、理科や数学の用語を知らなかったりする。二等辺三角形、台形、円周の求め方など英語ではとっさには出てこない。同じように化学物質や植物の名前もあまり知らない。しかし英語を使う環境に居るとそんな言葉を使うことはしばしばあり、それが出てこないと怪訝な顔をされてしまう。将来のために高校で高度な英語を学びたい生徒には数学や理科やITを英語でやることが良いと思う。それは大変だというなら教科書だけでも英語のものを使うべきだ。これは将来もっと英語を上達して、海外で仕事をしたいとか留学したいとかいう学生にはとても役に立つはずだ。英語を教養ではなくツールとして学ぶことにつながる。

この点に関して鳥飼玖美子氏は前回紹介した著書の冒頭で次のように述べている。
′英語を国際共通語として使うというのは、実際にはどういうことでしょうか。それは英語を母語としない各国の人々が英語を使う必要に迫られて、やむなく使うということです。本来はお互いの言語を学び合うのが理想ですが、現実にはそういうわけにもいかないので、双方が知っている共通語を用いてコミュニケーションを図るわけです。略。国際共通語としての英語は二つの側面を持つと思います。一つは地球人全員の共通語であるから誰もが自由に英語を使う、という面です。と同時に共通語である以上、通じなければ意味がない、という側面もあります。この二点はよく考えれば相反する可能性もあります。
 誰もが好きなように使ってよい、ネイティブ・スピーカーの真似をする必要はない、という側面だけが前面に出過ぎると、各地のお国訛りが百花繚乱となり、にぎやかで楽しいけれど、何を言っているんだか聞き取れない、話が通じない、となる可能性がなきにしもあらず、です。略 それでは元も子もないので、ネイティブ規範を押し付けるのではなく、しかし英語として聞こえるような、通じる英語とは何か、という落としどころを見つけなければなりません。共通語なのですから、重要なのは、正確さでもなければ流暢さでもなく、「通じる」という「分かりやすさ(intelligibility)」です ’

 何を持って「分かりやすい」とするかは難しいところだが、これに関する研究が海外では行われているとして鳥飼氏は次のような例を出している。ジェンキンスという研究者は「共通語(Lingua Franca)としての英語」という点から英語の核(core)を探そうと試みているという。それによると共通語としての核を見出す基準はネイティブ・スピーカーではないという。そうではなく英語を母語としない者同士が英語で話しあった際に、お互いがお互いの英語を理解できるかどうかという「分かりやすさ(intelligibility)」が基準となるということだ。そのために、各国の人々に英語を話してもらい、それが理解できたかどうかを検証して、この音はきちんと発音しないと通じないとか、この音は少しくらい間違えても理解が可能とかの分類をし、核(core)を見つけ出すという作業だそうだ。

 まだ研究は途上で結論は出ていないそうだが、次のようなことが分かってきたという。theなどのthを「ザ」と発音しても分かりやすさに大きな影響を与えない。またLとRの違いもほとんどの場合文脈から想像がつくので過剰な心配はいらない。ネイティブ・スピーカーではないことは明らかになるが、そもそもネイティブ・スピーカーと思ってもらう必要などはないので通じることが大切なわけだ。鳥飼氏の経験でも母音の発音より子音の連結の方が厄介だそうだ。高校生の時に留学した彼女が変な発音をしたら指摘してとホストファミリーに頼んで、最初に指摘されたのがdidn'tの発音だったそうだ。そしてどう直して良いかとても苦労したと書いている。
 ジェンキンスの研究ではイントネーションにもあまり気を使う必要はないとなっている。これも日本では入試問題に出るほど重要だと考えられていた。それよりも単語のどこを強く発音するかという強勢(ストレス)が通じるためには大事だと言っている。これはわたしたちの頃はアクセントと言っていたように思う。これはまったく同感で少し大げさなくらいにやらないと通じない。このブログでもかなり前に書いたことだが、わたしが大学生の頃カナダに行ったとき、高校生の女子がカナダ人と話していてイタリアが中々通じず、色々と強勢のポイントを変えていうのだが相手は怪訝な顔をしたままだった。その後彼女が国としてのイタリアの説明をしたら、彼は’オー、イタリイ’と最初のi(イ)をとても強く発音したのだった。今思えば漫画みたいな話だが50年近い昔ではこんなものだったのだ。

 こうした研究がなされている海外と比べると小学生から英語を教えれば良い、ネイティブスピーカーに会話中心の授業やってもらえば良い、と思い込んでそれを進めている日本の英語教育の無邪気さというか、お粗末さはどうしようもない気がする。鳥飼氏は英米文化理解から、国際共通語としての英語を教える方向にシフトすべきとして、次のようなことを提案している。「脱ネイティブ・スピーカー信仰」「英米文化と英語教育の関係の整理」「読み書きの重点化」「自立した学習者の育成」 この二番目の点を鳥飼氏は「学習事項の仕分け」と言っているが、それは外人のようなジェスチャーや発音を真似すうる必要はないこと、イディオムやスラングを不必要に使うこともないこと、その他の英米の言語習慣を真似する必要はないことだといっている。
 欧米コンプレックスと国内の権力をあわせ持った不見識な政治家や経済人の声に押されて英語教育はおかしな方向へ行こうとしているが、子を持つ親や祖父母までそれに疑問を持たない事の問題点は次回述べたい。