再び村上春樹について

 村上春樹芥川賞が与えられなかった件については過去にも書いたが、その理由が単に選考委員の問題と言うだけではなく、日本の社会の意識構造にあったのではないかと考えさせられたのは、市川真人の「芥川賞はなぜ村上春樹に与えられなかったのか」を読んだからだ。この本自体はタイトルについて多くを語ってはいるものの、映画「三丁目の夕日」から太宰治の「走れメロス」、漱石の「坊ちゃん」まで手を広げた文学評論となっていて、それなりに面白い。

 筆者によると村上春樹芥川賞が与えられなかったのは、日本のアメリカへの依存関係のとらえ方が従来の小説と、または選考委員に代表される日本の社会の意識と、まったく異なっていたからだという。こうした分析は筆者独自の物ではなく、江藤淳加藤典洋という著名な文芸評論家の視点に基づいてこの問題を考えた結果であると筆者は言っている。特に加藤典洋は1985年の「アメリカの影」の中で’日本文壇は、日本はアメリカなしにやっていけないという思いをいちばん深いところに隠しているが、それを、アメリカなしでもやっていけるという身振りで隠蔽している’といった趣旨のことを書いた。こうした隠蔽が無意識に行われたのか意識的なのかわたしにはよく分からないが、この時代の空気として’アメリカ何するものぞ’といったものがあったのは事実だ。

 わたしは1978年から1980年に慶応ビジメススクールで学んだが、HBSで作られたケースを議論する中で、少なくない数の学生がアメリカ(特に産業)に対しての否定的意見を述べていた。代表的なのは'米国産の自動車など危なくて乗っていられない’といったもので、これが可なり事実だっただけに、日本は産業の全般的分野で、既にアメリカに追いつき追い越そうとしているという考え方が支配的だった。しかしその産業の成長でさえアメリカへの政治的依存によってもたらされているという議論は学校だけでなく、社会全般にも希薄だったと思う。現実を見ようとしない政治家や学者、評論家とマスコミは、日本は米国への依存を減らし、他の国々と等距離の外交をすべきだと主張していた時代である。


 村上春樹が「風の歌を聴け」と「一九七三年のピンボール」で芥川賞の候補になったのが1979年と1980年である。それから数年して加藤は上記の本を出した。まさにアメリカ何するものぞの真っただ中である。この少し前に、アメリカなしでもやっていけるという意識に訴えたのが村上龍の「限りなく透明に近いブルー」で、だからこの作品は審査員に支持され芥川賞を受けたと筆者は論じている。一方アメリカに全面的に依存していることを示した作品は、見たくないものを見せられるからか文学関係者に支持されなかった。1980年の田中康夫の「なんとなく、クリスタル」をその例としている。江藤淳は後者を評価し、前者を認めなかった数少ない一人だそうだ。

 それでは村上春樹はどうなのだろうか?筆者はアメリカとの関係と言うか距離感で、村上春樹村上龍とも田中康夫とも違っていると言う。村上龍田中康夫にとってアメリカは依存しない、依存するという違いはあるものの、自らの外部にあるものなのに対して、村上春樹アメリカは外部でも内部でもなく一体化しているという。村上春樹についての筆者の分析は、わたしには必ずしもすんなり受け入れられるとは言えないが、村上春樹が日本語を使い、日本を舞台にしてアメリカ的な小説を書くことで、日本とアメリカの新しい関係が生み出す、社会や人の意識のようなものを描こうとしたのなら、なんとなくわかる気がする。彼にはその時点で、そして将来、アメリカと非依存、依存以外の関係性、一体化と言うのが正しいかどうか分からないが、そうした第三の関係を自然に身に付けた若者が増えてゆくことが分かっていたような気がするからだ。だからこそ、芥川賞を受けなくても、村上春樹の小説は若者に支持されたのだと思う。そしてこの非依存、依存以外の関係はアメリカとの間だけではないことを考えると、村上春樹が世界中で支持される作家になることも説明していると思う。


 こう考えてくると、村上春樹芥川賞受賞に反対した審査員たちはこうした日本とアメリカの関係性の変化に気がつかなかった、その時の社会のマジョリティの気分を代表していたことが分かる。ある小説に賞を与えるのは、その小説が持つ新しさ、ストーリーや文体だけでなく、人々の意識の変化の予兆を誰よりも早く気づき描いていることも含めて、新しさを評価する結果だろう。社会のマジョリティと同じ感受性しか持ち合わせていない審査員では、本当の新しさは評価できない。保守的な老人が何人も審査員にいたことが問題だった。審査員の大多数が丸谷才一吉行淳之介大江健三郎(2度目の候補の時には支持した)のような人達だったら、村上春樹芥川賞を受賞したはずである。

 村上春樹芥川賞を取れなかった社会的背景は上述のようだとしても、突き詰めると結局、どんな審査員を選ぶかといった議論に戻ってしまう。それではあまりに問題を矮小化してしまうと言われるかもしれないが、将来性のある新人を選ぼうとするなら、既成の価値観や枠組みの中でしか技量を評価できない作家(審査員)たちの数をもっと絞るべきなのは明白だ。そうした大作家達を使いたいなら、既に定評がある中堅作家を対象とした賞の審査員にした方が良いだろう。
 さて今年のノーベル文学賞村上春樹にくるだろうか?