「火花」に関して(2)  

又吉直樹の「火花」をめぐっては作者が人気のお笑い芸人ということもありテレビ等でも様々な反応があったそうだ。インターネットで話題になったためにわたしが知ることになったのは和田アキ子古舘伊知郎の発言だ。どちらも自分がメインのテレビ番組の中での発言らしい。
 
 和田アキ子は「又吉の小説は‘純文学の匂いがする’というが私は何も感じなかった」と言ったそうだ。これに対し‘エラソーに何様のつもりだ’といった批判が殺到したという。しかし和田アキ子は意味ないことを声高に言いまくることでテレビ・ラジオの世界でのポジションを作ってきた人なので、そのキャラにふさわしい発言だと思う。又吉の作品など大したことはないと言いたかったのかもしれないが、その発言が示しているのは‘わたしには文学などわからないし、そんな感受性も持ち合わせていない’ということだ。とても正直な発言で怒ることはなく、ただ黙って聞いていれば良いと思うのだが。

 一方で古舘伊知郎の発言は不可解だ。自分が司会をする報道ステーションで彼はこう言ったそうだ。「芥川賞本屋大賞の区分けがだんだんなくなってきた感じがする」これは事実の報道ではなく自分の意見を述べたのだからそこには何らかの意図があったはずだ。もしかしたら何かを伝えたかったのかもしれない。この発言から彼が言いたかったことがあるとすれば以下のようなことなのだろうか。

  • 芥川賞などはもはや不要。だって本屋大賞と同じレベルの選考なのだから(これは逆でも良いが、やはり芥川賞への皮肉と捉えるべきだろう)
  • 芥川賞の選考は話題性を何よりも優先して行われた。それは本を売るためにほかならない
  • 芥川賞の選考委員は一流の作家たちだが、彼らの小説を見る眼は本屋の店員と変わらない

 
 こう並べるとどれもが当たっているようで、どれもが違っているような感じがするのは何故だろうか。古舘伊知郎自身が何を言いたいのかよく分からずに発言したからなのかもしれないと思う。彼は発言そのものより、おれにはいろんな事がお見通しだぜと示したかったのではないか。単に又吉の受賞を伝えるのではなく一流のキャスターとして気の利いた事を言いたかったような気がする。しかしそのためのコメントとしては‘芥川賞本屋大賞の区分けがなくなってきた’というのは明らかに思慮が浅く、回り回って自分に戻ってくるのが明白だ。その程度のことも考えずに発言したのだろうか。

 良い本を選んだり、実績の少ない作家を評価するときに、プロの作家と本好きのアマチュアが同じような評価やコメントをすることはありうる(多くの場合同じかも知れない)。作家だけではなく、高校野球を見ているスカウトと熱心なファンの意見が一致して同じ選手を高く評価することもよくあるだろう。一方でプロが評価した作家やスポーツ選手がその後大成しないこともある話だ。だからと言ってプロとアマチュアの作品や選手を見る眼が同じだと言って良いとは思えない。プロとアマチュアの差は非常に大きいし、プロの中でも力の違いははっきりしている。一流のプロの意見が尊重されるのはその違いの大きさが分かっているからだ。

 例えば報道ステーションのキャスターやアナウンサーを替えるときに誰が後任を選ぶのかを考えてみれば良い。ある程度候補を絞った後で大学の放送研究会に依頼すれば局のプロデューサーやディレクターと同じ選考をしてくれると考えるだろうか。またアナウンサーの後任は放送研究会の学生にやらせても変わらないと考えるだろうか。そんなはずはない。古舘は番組の制作者として、またアナウンサーとしてプロとアマチュアの違いを誰よりもわかっているはずだ。だから芥川賞に対しても前述のようなこと言ってはいけない

 テレビの人気キャスターとして番組を盛り上げるために、そして自分が優れたことを示すために気の利いたことや斜めに構えて皮肉を言うことはあるのは理解できる。しかしそれをするなら思いつきではなく深く考えた上で、しかしそう見せずに発言しなくてはならない。「火花」について何か言うなら本をしっかりと読んだ上で、視聴者を感心させる読後感を述べるべきだ。こんな発言なら和田アキ子の発言の方がよほど良い。古舘がそう思わないのならキャスターとしては失格だろう。