「火花」に関して(1)

 いま話題の又吉直樹の「火花」を読んだ。一言で言うととても面白かった。読後感の爽やかな青春小説で、芥川賞受賞作では「九月の空」や「風の歌を聴け」を読んだ時のような感じが残った。

 お笑い芸人の僕が師匠と尊敬する漫才芸人神谷との関わりあいの中で成長してゆく話である。一方で神谷の方は生粋のお笑い芸人という人物でまったく変わらない。彼は客を笑わせる漫才芸人の本質とは何かを考え続け、その天才的な感覚で重要な点を掴んでいくのだが、それを芸として体現するところで上手く客との接点を作れない。いわば孤高の天才であり、どうしようもないアホである。だから僕は師匠として崇めるのだ。

 芸人が提供する笑いや芸は、その道の素人である観客が面白がることで価値を持つ。これは一種のパラドクスなのだが、成功する漫才芸人はその矛盾に上手く折り合いをつけることができるか大衆が求めるものを察知してそれに自分を合わせることができる。これはもう立派な才能なのだが面白い漫才ができる漫才師でもそうした才能がないものがいる(というか大半はそうなのだろう)僕も神谷もこうした人種なのだが、神谷が芸に妥協しない破滅型なのに対して僕はもっと小市民的で現実的だ。僕は神谷の才能に到底かなわないと思うが漫才師としてそれなりに受けるのは僕の方だ。(神谷は’あほんだら’という漫才コンビを組み僕は′スパークス’というコンビを組んでいる)将棋や囲碁のように勝ち負けが明快な世界だったら神谷は破滅型の天才として成功したかもしれない。

 この二人のキャラクターがこの小説が成功した大きな要素だと思う。この二人のキャラクターをいろんな出来事と会話を通して描き出した又吉の才能には驚くしかない。わたしはこの小説を文藝春秋の9月号(芥川賞発表号)で読んだのだが、買ってすぐにそれから選考委員の選評を読んでからの二度読んだ。二度ともとても楽しんで読んだのだが、数ある印象的な場面の中で特に感動したところを紹介しよう。

 神谷が同棲というかヒモとして暮らしていた真樹さんと別れるところだ。彼女は風俗嬢までして神谷を支えていたのだ。神谷は身の回りの物を真樹さんのアパートから持ち出すときに、彼女の新しい相手もいるので厄介なことになると困るから僕についてきてくれと頼む。その際に感情的にやばくなったら僕の股間を見るので勃起しててくれと頼まれる。当座の荷物をスーツケースに詰めたあとで僕が神谷を見るとその目は僕の股間に注がれている。僕は慌てて携帯でいかがわしい写真を見るのだが当然ながら上手くいかない。しかしどういくわけか微かに股間が反応し神谷はそれに気づき吹き出す。アパートを出て歩き出すと神谷は腹を抱えて笑う。(以下抜粋)

「お前、なに勃起しながら泣いとんねん。性欲強い赤ちゃんか」
「自分が命令したんでしょ」
中略
 僕は神谷さんの役に立てただろうか。

 ここのところは5-6ページにわたる会話と少しの描写で語られていて、それを読まないと本当の面白さはわからない。このずっと後で僕は真樹さんを偶然見かける。神谷とアパートに行ってから十年以上経ってからだ。(以下抜粋)


 その後、一度だけ井の頭公園で真樹さんが少年と手を繋ぎ歩いているのを見た。僕は思わず隠れてしまった。真樹さんは少しふっくらしていたが、当時の面影を充分に残していて本当に美しかった。圧倒的な笑顔を、皆を幸せにする笑顔を浮かべていて本当に美しかった。七井橋を男の子の歩幅に合わせて、ゆっくりと、ゆっくりと歩いていた。その子供が、あの作業服の男の子供かどうかはわからない。ただ、真樹さんが笑っている姿を一目見ることが出来て、僕はとても幸福な気持ちになった。誰が何と言おうと、僕は真希さんの人生を肯定する。僕のような男に、何かを決定する権限などないのだけど、これだけは、認めて欲しい。真樹さんの人生は美しい。あの頃、満身創痍で泥だらけだった僕たちに対して、やっぱり満身創痍で、全力で微笑んでくれた。そんな真樹さんから美しさを剥がせるものは絶対にいない。真樹さんに手を引かれる、あの少年は世界で最も幸せになる。真樹さんの笑顔を一番近くで見続けられるのだから。いいな。本当に羨ましい。七井池に初夏の太陽が反射して、無数の光の粒子が飛び交っていた。


 わたしはこの文章、このシーンのところを読むたびに泣いてしまう。少し感傷的だけどもその前のアパートのシーンとの対比が素晴らしい。この他にも気に入ったシーンや文章はたくさんあるが、それは読んでのお楽しみということで。

 選考委員の評はいつものように面白かった。選評から「火花」がどう評価されたか判断すると、九人のうち四人が積極的に推し、二人は積極的には推していないが受賞を支持し、三人が受賞を支持しなかった。積極的だったのが宮本輝川上弘美山田詠美小川洋子で、控えめの支持が堀江敏幸島田雅彦、不支持が高樹のぶ子村上龍奥泉光だった。しかし不支持の村上龍奥泉光の二人共「火花」の面白さと作者の力量を認めているのが印象に残った。また島田雅彦は「何でも屋羽田君と一発屋又吉君」と今回の受賞者二人を評したタイトルの選評で又吉について′今回の楽屋落ちは一回しか使えない’と厳しく締めくくっている。

 しかし又吉はそのことを誰よりも理解しているはずだ。小説家にとっては(小説家に限らないが)二作目が何より難しいのは当然の話だ。そう考えると島田の評も当たり前すぎて何をいまさらという気がする。十八歳の時「悲しみよこんにちは」で世界的な人気作家になったフランソワーズ・サガンが言っていたことを思い出した。「私の二作目を評論家たちは機関銃を持って待ち構えている」(正確ではないがこんなことを言っていたと思う)又吉も文芸春秋の受賞者インタビューで選考委員から「間違いなくあなたは一回落ちるけど、そこから上がってくるのを楽しみにしているから」と言われたと答えている。次はどんな小説で来るのか、将来どんな作家になるのかとても楽しみだ。

 もう一つ又吉が書いた受賞の言葉は短いがとても印象的だ。わたしはこれを読んで「この人は本物の作家で高い志を持っている」と心から感じた。
 次回は「火花」に関して起こった出来事についての感想を書きたい。