読み返す本

 何度も読み返す本というのがある。何度読んでも飽きないし、いつも新鮮で心にせまる本だ。私の場合ほとんどが文学作品だが、中でも一流といわれる作家のエッセイとか対談に惹かれる。何故小説ではないのか問われると、私の読み手としての能力の問題だと言わざるを得ない。

 私は本を読むのが好きな方だが所謂読書家ではない。気が向いた本を気まぐれに読むと言った方なので、古今の名作でも読んでいないのが沢山ある。長く読んでいるから、評判の本でも内容がお粗末なものは読んで分かるが、一流の作家の名作といわれる作品は、みんな素晴らしい部分があるので、好き嫌い以外にはコメントできないのが大半だ。それどころか教養そのものが乏しいので、作品をきちっと理解しているかさえ自信がない。長くて難解なものは、面白くても読みとおすだけで精力を使ってしまい、内容や表現を批判的に評価するところまでいかない。
 
 その程度の読み手だから作家のエッセイとか対談は読みやすいのだ。小説からその作家の意図するところや、表現へのこだわりを読み取るのは難しいが、エッセイなどでは可なり率直に自分の作品について語っていたりするので、それを読んで小説や作者への理解が深まることが多い。特に小説家が他の作家の作品について語っているのはとても興味深い。その批評の中にその作家の美意識や小説への考え方があらわれているからだ。

 私が何度も読み返す本の一つが吉行淳之介の「私の文学放浪」である。これは氏が1964年から1965年の間、週1回東京新聞に連載したものである。(この題名の単行本には、これ以外に他の紙面に発表した「拾遺・文学放浪」と「註解および詩十二篇」が収められている) 吉行淳之介旧制高校の時に文学に興味を持った後、1962年頃までの彼の活動、小説を書くことが中心なのは当然だが、戦後の厳しい時代を生き抜くために東大在学中から雑誌の編集人をしていた頃のことや、結核の手術をして入院中に芥川賞を受けたことなどが興味深く描かれている。吉行は1924年の生まれだから、18歳から38歳までの20年間のことを書いたことになる。

 作家吉行エイスケの息子として生まれ、才能に恵まれてすんなりと職業作家になり、独特の美意識に基づいた作品を発表してきたと思われた吉行淳之介だが、実際は作家として認められるまでに数年間の下積みの時代があった。成功前の作家が感じる自作への無理解による苦しさや悔しさ、同世代の作家が脚光を浴びることへの憧れなどが率直に語られている。戦時中の軍国主義的風潮への嫌悪、戦後のコミュニズムの流行の中で狂信的な軍国主義者が学園マルキストになっていることへの抵抗感が吉行の生き方の基礎になっているようだ。いつの時代でも少数者として、物事の本質を見つめ生きてきたプライドと、自分の才能への自信が、後年作家として地位を確保した後でも、彼の作品の本質を理解出来ない批評家やマスコミの不適切な評価にも動じず、硬軟持った多様な作品を発表し続けた基礎となっているのだろう。

 この本を読むたびに、これほどの才能を持った人でもこんな思いを持って生きてきたのだと感じると同時に、才能と明晰な頭脳を持った人への畏敬と憧れを抱き、癒されるのだ。どこがどう良いかは私の才能では上手く伝えられないので、読んでもらうしかない。文章を書くことに少しでも興味を持っている人には沢山のヒントがある。特に作者と対象との距離感の重要性を、トーマスマンの「トニオ・クレーゲル」を引き合いに出して論じているところなどは全く同感だ。