小説に描かれた外資系企業(1)

 臨床心理学者の河合隼雄白洲正子との対談の中で次のようなことを言っている。'アメリカなんかへ行くと若造がパッと手を上げて、すごい馬鹿な質問するわけですよ。でもそれに対して先生はちゃんと答える。アメリカの大学院へ行って、僕の正直な感想を言うと「何と馬鹿なやつらが大学へ来てるか」 その結果、どうですか?学者はみんなアメリカの方が日本よりレベルが高いじゃないですか。これがなぜかというと、どこかでツーカーの世界で溺れているから、無理にでも言語化して戦うところまで行かないということですよね。こういう点では、言葉にすることの意味を痛切に感じます。’

 これは西欧的自我が言葉で出来ているのに対し、日本の場合は言語化が徹底していない上に、色々なことを非言語的に学習していることを述べた中での発言である。自我の問題は大変難しく私の手にはあまるので、ここでは上記の発言についてだけの感想になる。河合氏は欧米での生活(研究)体験が豊富なので、日米(欧)の様々な違いを色々なところで感じてきたのだと思う。この発言は日米の社会、人の思考/行動様式などの差異とその差異がもたらす結果について見事に指摘していると思う。

 30年以上も世界最大と言われる米国企業の日本法人で働いたわたしにとっても、この河合氏の指摘は心からうなづけるものだった。日本でビジネスをしながら、アメリカ的な資本の論理と経営のルールを尊重しなくてはならないことは、様々な点でコンフリクトに直面する。そこをどう乗り切るかという時に大切なのは、我々が当たり前と思っている考え方、習慣、ビジネス慣行等を客観的に見つめなおし、それらの本質は何かを掴むという作業だ。これはしんどいことだが、繰り返し行い、説明することで自分の思考力や言語化する力が高まってゆくのを感じたものだ。

 私が勤めていた企業は日本の石油業界の中でもどちらかと言えば異端と看做されていたし、当時の通産省なども色々な思惑もあって、露骨に民族系の企業とは扱いに差を付けていた。また日本の銀行やメーカーに勤務する友人たちと話していても違和感を感じた。そんな意味でわたしは日本のビジネス界を横から見るような感覚を持っていたが、わたしには日本企業やそれが属する社会は、あまりに保守的、権威主義的で、人間をその人の考え、発言、行動で評価するのではなく、学歴、社歴、肩書で判断するように思えた。そして企業倫理やビジネスコントロールの不足を、人間を信頼しているといって問題をすり替える姿勢に、致命的な怠慢と緊張感の欠如を感じた。要するに仲間内でツーカーのビジネスを行い、それに安住し、新しいことに挑戦する気概を持っていないと思えた。

一方、米国企業はビジネスにかかわるあらゆることを文書化(言語化)する。日本人同士なら当たり前とか、常識で判断するといった事柄も文書にする。そうして一旦ルールを決めたら、それを守り、実行しようとする。従って文書化の段階で、例外を認めざるを得ないケースや、ルール通り行かない場合の対応方法を十分に議論しておく必要がある。西欧人はこの点については本当に真剣に議論し、考えられる限りのケースを想定してルールを決める。大多数の日本人はこの辺がいい加減で、適当でいいやと言っておきながら、ルール通り行うことで問題が生じると、ルールが現実を反映していないからおかしいなどと文句を言う。決まり文句は日本(日本文化とか日本人の心情)の特殊性をもっと配慮しろである。論理でなく情緒になってしまう。

 
 具体的な例として思い浮かぶのは日本長期信用銀行が国有化の後に、リップルウッドを中心としたグループに売却された時のことだ。ボロボロになった長銀を引き受けるところは少なく、最終的にリップルウッド中央三井信託のグループが残った。何故かと言えば、日本のどこの銀行も長銀を引き受けるといったリスクはとりたくなかったからである。何故長銀引き受けがリスクかと言えば、長銀の負債の実態が不明だったからだ。当時言われていた負債額など誰も信じていなかったし、また誰にも実際のところが分からなかったのかもしれない。(銀行の経営実態に関する調査がいかに杜撰かというのは、今回のユーロ危機に際しての欧州の銀行の実態調査でも、当初はすべての銀行が問題なしとなっていたことでも分かる)

 最終的にリップルウッド長銀を獲得して新生銀行が誕生するわけだが、その後問題となったのは譲渡の条件に入っていた瑕疵担保条項である。これは譲渡から3年以内に、正常債権の判定に瑕疵が生じ、簿価より2割以上目減りした債券は預金保険機構に買い取らせることが出来るというものだ。長銀の債権の実態が不明なため、この条項を付けないと売れないというのが本当のところだったろう。中央三井信託グループは決局買わなかったわけだから、こうした条項がついてもまだリスクが大きすぎると判断したのだ。リスクをとったリップルウッドは、新生銀行として業務を開始したが、判明した不良債権に対しては当然この条項で認められた権利を行使した。これに対してごうごうたる非難が生じ、新生銀行社長は予算委員会に喚問され売国奴の罵声を浴びた。これはどう考えてもおかしな話で、後でそんなこと言うならリップルウッドに売却しなければ良いのだし、そもそも長銀など救済すべきでなかったのかもしれない。それが出来ないから売却したのなら、買い手が契約通りのことをしたのを文句言うことは出来ないはずだ。国が契約で決めたことを、後で反故にするとしたら、日本は国際的なビジネスなど出来なくなるだろう。ちなみにこの時新生銀行を糾弾したのは民主党の仙石議員である。

 河合氏が指摘するように日本人は問題が生じる前に、物事を議論し、言語化して厳密に定義しておくことをしない。そして後でそうではなかったと言いたがる。こうしたメンタリティで外資系企業を舞台にした小説を書くとどうなるのかというのが今回のテーマである。経済小説というのを長いこと読まなかったが、最近高杉良と黒木亮の小説を読んだ。どちらも外資系企業で働く日本人のことが書いてある。次回はこの二人の作家の作品について述べてみたい。