’芥川賞 該当作なし’に思うこと(1)

平成21年度下半期の第142回芥川賞は該当作なしとなった。文藝春秋三月号の'該当作なし'という結果発表を見て、そして選考委員の作品評を読んでいくつかの感想を持った。

'該当作なし'という発表が意味しているのは芥川賞は作家を選ぶのではなく作品を選ぶのが原則だということだ。一方でこれまでの選考委員のコメントには、'この候補者は十分に力を持っていると思うがもう一作見てから判断したい'というのがよく見られた。これは明らかに作品より芥川賞にふさわしい作家を選ぼうという姿勢である。

作品に与えるのか作家に与えるのかは、文学賞にとって根本的な問題であるはずだが徹底的に議論されず曖昧にされてきた感じがする。選考委員たちは社会的イベントになっている同賞の授与に際して不適当な作家(一作は良い作品が書けたが継続的に良いものを描く才能はないかもしれない)を選んだという誹りを免れるために、よほど圧倒的な訴求力がない限り、複数の作品を見てから職業作家としての力量があるか否かを判断するというスタンスをとっているようだ。一方で何回も候補に挙がりながら結局賞は取れないまま、一流作家の地位を確立した作家もいる。この辺の不徹底が何故関係者の間できちっと議論されないのであろう。文学作品を選ぶことは、その芸術的価値を判断することにつながるから、選考の基準を明快に示すことは難しいとの理由で曖昧なままになっているのかもしれないが、この点を避けてきたことが、同賞選考過程やその結果に疑問が持たれる原因になっていると思う。


さらに'該当作なし'はこの賞がある要件を満たしていないと与えられない性格のものだということを示している。問題はクリアすべき要件が明確ではないことだ。この要件が普遍的で一貫性があるとも思えない。具体的な選考のプロセスとしては文藝春秋のスタッフが前の半年間に発表された作品の中から候補作として数点を選び出す。この過程ではスタッフの間で数多くの会議が重ねられ候補作にふさわしいかの検討がなされるそうだ。 選ばれた候補作の作者に受賞の意思があるかを確認し発表される。これらの作品を選考会のメンバーが上期は7月、下期は1月に集まって議論し最終決定するという。

ここでの問題は選考会で意見が一致しない場合である。もちろん選考委員は一流の作家や評論家だから、皆独自の文章論や美意識等を持っていて、意見が分かれることは十分にありうるというか当然かもしれない。ある委員が強力に推し、他の委員が大反対するような場合、他の委員の意見を入れて多数決のようなことが行われるという。すなわち芥川賞をとる要件とは多数の選考委員の支持を得ることである。しかし優れた文学作品を選ぶ際に多数決は適当な方法なのだろうか。選考委員は年代的に広い範囲にわたっているが、一般的に70歳以上は作家であっても新しい時代の流れや考え方への感受性が衰えるし、30代、40代の作家とは問題意識や、物の見方か異なっている。しかし年長の作家がその世界で大家であれば、その意見をないがしろにするわけにもいかないだろう。こうした力関係も最終選考で意見の一致が見られない場合、決定に影響を与える要素になりうるだろう。無名の新人を選ぶという芥川賞の趣旨にはまるで合わないことだ。要するに芥川賞を得るための要件を満たすことは、芸術性又は文学性の一定の基準を超えたことを意味しているとは必ずしも言えないのだ。

当ブログで昨年9月に取り上げた村上春樹の'風の歌を聴け'の芥川賞の選考でも同じようなことが起こっていたようだ。村上の作品は落ち、青野聰と重兼芳子の作品が選ばれた。賞の趣旨から言うと村上の作品は受賞した両氏の作品よりは劣っていたが、作家としての力量(今風にいえばポテンシャル)は高かったのでその後村上は人気作家になり世界的な名声を得たということになる。しかしこんな説明を真に受ける人はいないだろうし、芥川賞を主催する日本文学振興会がそう言うとすれば自ら賞の価値を貶める以外の何物でもないだろう。


こうした選考の過程を見るとオリンピックのメダル争いははっきりしていて良いと思う。タイムや得点で勝ち負けが明確にわかる。文学とスポーツを一緒にするなと言われそうだが、先にも書いたように芥川賞は今や社会的イベントだから似たような点は多い。オリンピックのほうが4年に1度しかないし、世界中の選手が集まるのだから、日本国内での競争で年に2回もある芥川賞に比べ、競争ははるかに厳しいしメダルの価値も高い。また一度の戦いだから実力のある選手が勝つというわけでもない。スキーの回転などは皆ギリギリのコース取りをするからちょっとしたミスで棄権になってしまう。ワールドカップで上位の選手が必ずメダルを取るわけではない。まさにその時の出来次第で、この方が作品に賞を与えるという芥川賞の趣旨に近いようなものだ。そして選考委員の好みや多数決で今回は金メダルなしということもない。
競技の中でも体操やフィギュアスケートなどは審判員の評価に大いに依存している。よってこれらの競技は過去にその採点で物議を醸したことが多々あった。言い換えればこれらの競技は芸術性が高いのだろう。しかしこれらについても出来るだけ透明性を高める努力がされていて、それは可なり成功していると言える。演技の内容を細かく分け技の一つ一つをウェート付けし、それらの技の完成度と全体的な演技の訴求力を得点にして順位づけをしている。審判員の好みや意図が全く入らないとは言えないが極力小さくなるような工夫はされている。

私は何も文学賞に同様の点数制を導入しろと言っているのではない。しかし賞を与える基準となる要素を明確にし、その要素が持つ重要度に優先順位を付けるような工夫があってもよいのではないかと思う。各文学賞によって要素ごとの優先度は当然異なる。それが文学賞ごとの性格や位置づけの違いを意味することになる。文章力、物語性、構想力、普遍性、革新性、時代性など私のような素人でも(素人だからこそかもしれないが)考えつくし、これ以外の要素化できない項目を入れてもよいだろう。こうすれば選考委員の議論もよほど論点が明確になるのではないか。

今回(第142回)の選考では舞城王太郎氏の作品が次点のような扱いで文藝春秋にその作品が掲載されている。これについては選考委員の池澤夏樹が絶賛し、他の2、3人の委員が消極的に評価しているが受賞には至らなかった。次回は池澤氏の評価を紹介しながら、賞を選ぶ方法について改めて考えてみたい。