老いること、死ぬこと

 今年72歳になる。7回目の年男だと言ったら、妻に6回目でしょと直された。0歳の時を1回目とすると7回目だと思うのだが、そう主張しても簡単に同意する相手ではないので黙っておく。7回目ともなるとこういう点で少しは成長するというか経験に学んできた気はする。これは年を取って人間が出来たのというのではなく、単に何度も経験した状況への自分なりの対処方法をつかんだということにすぎない。野球で言えばある投手のカーブが打てなかったのを、何度か対戦するうちにファウルで凌ぐことを覚えたようなものだ。

 

 72歳になると人間的には成長していなくても、老いとか死とかが身近に感じられてくる。友達にも死ぬ人が出てくるし、自分もそう遠くはないのかななどと考えたりする。だからと言って生活態度が変わるとか、考え方に変化が起こるというのではない。元気に楽しくやりながら死ぬまでは生きていこうという感じだ。ゴルフをして、ギターを弾いて、好きな本を読み音楽を聴くという毎日だ。ゴルフやギターを練習して少し上手くなったと感じたり、読書で新しい知識を得たり、音楽に感動したりするとワクワクするのは今も変わらない。ただ若いうちはそういったワクワク感が生きていくエネルギーに繋がった気がするのだが、年を取るとそんな感じはなくただそれだけと言ったところだ。つまらないと言えばそうなのだが気楽と言えば気楽だ。無意識にこの先には死が待っていると感じているのだろうか。そこまで言わなくても若い時のような人生の発展はもうないという感覚は強い。

 

 年を取るというのは未来が小さいという意識に慣れていくことのような気がする。もちろん肉体的な衰えははっきりしていてそれに慣れてゆくこともあるのだけれども、もう残された時間は限られているんだという意識のほうが強いインパクトを持って迫ってくる。だから同世代の友人や有名人の死に強く反応する。先に書いたように’自分にも何があっても不思議はない’という感覚が一番強いが、正直に言うともう少し複雑な心境になるのだ。先に死んだ友人を悼むと同時にうらやましい気が生じる。死んだ人や残された家族を考えると不謹慎と言われそうだが、こうした気持ちがあるのは否定できない。多分歳をとればとるほど肉体的な衰えが進み一層死を意識せざるを得ない、自分を待っているのはこうした未来だと分かっているからだろう。今はまだ楽しく生きていられる。だがいつまでそうしていられるのか、そうできなくなった時にはどんな生活になるのか、と考えてしまうからだ。まだ元気なうちに人生を終われた人への羨ましさはそこから来ている。だからといって早く死んだほうがいいと考えるわけではないところがややこしいのだが。  

 

 芸術家などで中年以降に自死を選ぶ人たちは、それぞれ色んな悩みを抱えていたのだろうと思うが、元気なうちの死に対してのこだわりもあるような気がしてならない。感受性の強い人が多いだろうから、脳に存在する創作や美への情熱(精神的な若さ)が肉体の衰えと相入れず、そこに残された時間の少なさからくる焦燥が加わり生きてゆく活力を失っていくように見える。その点わたしのような凡人のほうが色んなことをどうにかやり繰りして生きてゆけるのかもしれない。

 

 死ぬことが怖いという気持ちは薄い。何人もいずれ死ぬのだから同じだ。そこまでどんな生活が待っているのか分からないけれども、昨日と同じように生きてゆく。しかしこうした生き方に価値はあるのだろうか。それとも老人は生き方に価値を考えなくてもよい特権を持っているのだろうか。わたしにはよく分からない。それでも社会との関わり合いを保つなり増やすなりすることが大切だという感じはする。

 まあ、とりあえずは来月のゴルフの予定を立ててからギターの練習をしよう。