プレバトで俳句を楽しむ

 プレバトはTBS(毎日放送)でやっている番組で正式にはプレッシャー・バトルというそうだ。芸能人がいくつかの分野で才能あるなしを競うバラエティだが、出演者がそれなりに真剣にやっているようなのが感じられて単なるバラエティを超えた面白さがある。

 俳句、生け花、盛り付け、絵手紙、水彩画、書道、消しゴムハンコ等々の分野があるが、特に面白いのは俳句だ。これが一番人気なのは番組の最初のコーナーであり、毎週放送されることからも分かる。(他のものは3週に1度くらいしか放送されない)わたしが俳句コーナーが好きなのは自分の俳句の知識が乏しいからだ。学校で教わった他にも俳句に接したことはあったが、どんなものが良い句なのかよく分からないでいた。だから番組でのやり取りや批評が新鮮で興味深かったし、何より観ているうちに、俳句が少し分かってきたような気がした。もっともこれはわたしの勝手な思い込みで、わたしが思っていることなどは全くの見当違いかもしれないという気もする。

 番組の出演者が作った俳句とそれに対する先生の批評を見ていて感じたのは、自分が気に入った、感動した、忘れがたいという風景や場面をカメラで撮るように言葉で切り取るのが俳句の基本なのだろうということだ。17文字しか使えないから余計な言葉は使えない。これ以上ないくらいの簡潔さで表現する。もちろん季語を入れ、5・7・5(変形もあるが)を守るのが大切だ。その句に接した人は表現されている内容を味わうだけではなく、詠み手の心情や人生観まで感じる。何故なら読み手がある風景に感動した、そしてそれを俳句で表現したことが詠み手の問題意識の表れだからだ。俳句を提示された人はそこに思いをはせるのだ。言い換えれば読者をそんな気持ちにさせるのが本当に良い句なんだと思う。

偉そうなことを書いているが読者を感動、感心させるのは中々簡単ではなく、わたしにはとても出来そうにない。俳句を作るコツを掴めば自分が伝えたい場面をそれなりには表現できそうな気はする。しかしそれでは感動は伝わらない。思い付きや想像では血が通うものは出来ないはずだ。この風景や場面に心を奪われている自分の存在を理解してほしいという強い気持ちを持って句を詠む必要があるからだ。そんな気持ちはきっと俳句以外の表現で伝える方がやりやすいと考えてしまうと思う。17文字でそれが出来る人はやはり凄い。でもそのうちチャレンジしたい気持ちが出てきたのは驚くべきことだ。

 プレバトの俳句コーナーを面白くしているもう一つの要素は評価をする夏井いつきの歯に衣を着せぬコメントだ。当たり障りのない意見や根拠の乏しい感情論が多いテレビの世界で、はっきりと自分意見を述べ、その理由や改善点も具体的に指摘する夏井先生の姿勢は貴重だ。また名人に君臨する梅沢冨美男との掛け合いも絶妙だ。梅沢は俳句の実力も凄いが、番組ではヒーロー役とヒール役を使い分けて夏井とやりあう。俳句を真剣に議論しながらもユーモアを持って落としどころを作るのは見事な芸だと思う。この二人が番組の内容に厚みを加えているのは事実だ。

 インターネットでこの番組を検索するとヤラセ疑惑を持っている人が多いのに驚いた。キスマイのメンバーがあんなに上手い句を作れるはずがないとか、お笑いの藤本や千原ジュニアもそうだといった意見が多い。テレビ番組だからそれなりの演出はあると思うが、俳句でそんなヤラセがあるようには思えない。その場で句を作るわけではないので、事前に作った句を人に見せてアドバイスをもらうようなことはありうるだろう。しかしまるで他人に丸投げしてあたかも自分で作ったようにふるまっているとは思えない。

 わたしが感じるのは大物の俳優や、お笑い系ではない俳優やタレントが俳句で酷評された後で生け花や盛り付けで才能アリをもらうあたりが臭いかなということだ。俳句はだめでもこっちの分野では才能がありますよとバランスをとっているように感じることが多い。どの分野でも才能なしだとまずいだろうという配慮は感じる。そうならないように作品に手を加えるとすればヤラセだが、まあ演出の範囲ともいえる気がする。それでも俳句ではそんな演出もないように感じるのは贔屓目だろうか。

 わたしがヤラセを感じるのはクイズ番組だ。最近のクイズ番組には博識が売りのタレントや東大のクイズマニアたちがよく顔を出すが、それだけでは番組にならないので人気タレントや俳優・歌手も出てくる。こうした人たちが簡単ではない問題に正解しているのを見ると事前に一部の答えを教えているとしか思えない。もっともそれもわたしは演出と考えていいような気がしている。そのタレントや俳優・歌手の価値はクイズにはないからだ。だから番組を盛り上げる範囲(そうした人たちが恥をかかない範囲)で演出してもいいじゃないかと思っている。

 プレバトの功績は、日本の伝統的な文化でありながら多くの人があまり理解や興味を持っていなかった俳句を親しみやすいものにしたことだ。将棋の藤井六段とまではいかないが、立派な功績だと思う。