脈拍数が少ないこと

 橘玲の「言ってはいけない 残酷すぎる真実」を読んだ。といっても、途中で退屈したので読み飛ばしたと言ったほうが正確だ。内容の大半がデータや学者の意見の紹介で、著者の意見がはっきりしないので読むのに飽きてくるのだ。しかしタイトルの割には割合まともな本で、人が先天的に持っている要素、人種的な特徴や遺伝的な特徴が、その人の行動に大きな影響を与えていることを様々なデータや論文を紹介しながら示している。もっとも比較的面白いのは第一章の’努力は遺伝に勝てないのか’で、第二章の’あまりに残酷な美貌格差’と三章の’子育てや教育は子供の成長に関係ない’は、分かり切ったことをデータを示しながら説明するという感じで特に目新しいところはない。

 著者もあまり遺伝的な影響を強調し過ぎないように配慮して、人間の性格とか行動は先天的なものと環境要因が複雑に絡み合ってできていると書いているが、やはり面白く感じたのは黒人は運動能力や音楽的才能に優れているが知的能力は落ちるといった具体例だ。運動と音楽についての優劣は言えても知的能力の水準についていうのはタブーだということが、本質的な議論ができず建設的な提言がなされないというのが著者の意見だ。もちろんこれは平均の話で黒人にもきわめて知能が高い人がいることは事実だ。こうした話の中でわたしの興味を引いたのが’反社会的人間はどのように生まれるか’という項目だ。

 この項目はアメリカ人の男性の話から始まっている。学校教師をしていたこの男は40歳くらいから態度がゆっくりと変わり始め、それまで無関心だった風俗の店に通うようになり、児童ポルノを収集し始める。妻が仕事で遅くなる夜は義理の娘の体に障るようになった。娘がカウンセラーに相談したことから彼は治療施設に送られた。そこでもスタッフや患者に性的な行動をとり今度は刑務所に行くことになる。収監の前日に頭痛を訴えたので精神病院に入院させるとそこでも女性看護師に性的行為を要求する。強制退院させるところだったが、ある医師がその行動に疑問を感じて脳スキャンにかけると、眼窩前頭皮質に大きな腫瘍が見つかった。

 その腫瘍を切除するとその男の症状は劇的に改善した。数が月後またおかしな行動をとり始めたので検査するとまた腫瘍ができていた。これも除去すると症状はなくなり、その後6年間普通に暮らしているという。こころの問題で異常行動をとったと思われていたが、脳の腫瘍が問題だったということだ。だから反社会的人間は精神の問題だけではなく、体の病や生理的な特徴でそうなっているのかもしれないという問題意識が呈示される。その具体例が心拍数と犯罪の関係だという。

 ウサギの調査では攻撃的で支配的なウサギは、おとなしく従属的な個体に比べて安静時心拍数が低いという。また群れの中でも地位が上がり支配力が増すと心拍数が下がる。同じような相関関係はボノボ(チンパンジー属)やマカク(オナガザル科)や他の動物のも見られるという。
 人間にも同様な調査をしたところ、心拍数が低い人の方が犯罪者になる確率が高いとの結果が出たという。その理由として3つの説明がされている。1つ目は心拍数の低い人は不安やストレスを感じにくい、つまり恐れの欠如がある。2つ目は心拍数の低い人は共感力が乏しく他人の痛みが理解できない。3つ目はこうした人たちは覚醒度が低いため生理的不快感を持ちやすく、その覚醒レベルを高くするために刺激を求める。よって他人を殴る、万引きする、麻薬に手を出すなどの行為に走るのだと言っている。本当にそうかなという疑問が残るのだが。

 先にあげた例の脳の腫瘍で異常行動をとるケースなら、腫瘍を切除することで改善が見込めるが心拍数が低い人はどうすればいいのかというとこれがよく分からない。効果があった治療法として電極が装着された帽子をかぶりビデオゲームをすることで覚醒度の低い脳を鍛錬するとか、異常な性行動を取る患者にはある種の抗うつ剤を処方するなどが紹介されている。いかにも怪しげな例でまともな人なら考えてしまうところだ。特に日本では精神科医が過剰に薬を出すことが問題となっているので、抗うつ剤が効果があるなどとは軽々に言えないと思う。

 何故わたしがこのことに興味を持ったかというとわたしの心拍数が低いからだ。人間ドックでの検査ではいつも47〜48という数値が出て洞性徐脈などと書かれることもある。中学生くらいまではたまに立ちくらみを起こしたりもしたが、成人してからは健康的には何の問題もなく過ごしている。もちろん犯罪歴もないし、家族への暴力もない。どちらかというと人に気を使いすぎる方だと思っている。(もっともこれは自分の感覚なので人がどう思っているかは分からない)

 だから心拍数が少ないことについては何の心配もしていないというか、まったくニュートラルな感覚だった。3年くらい前に雑誌で天野篤という医師が「高齢者にとって、だるさなどの自覚症状がなければ、少し血圧が低い方がはるかにいい。低血圧で脈拍数が少ない人に長生きする人が多いことは、医学的にも立証されています」と書いているのを読んでからは、自分がこれに該当することを喜んでいたくらいだ。だから橘氏の本を読んで驚きインターネットで心拍数のことを調べてみた。

 かなりな数の記事があり、この本に書いてあることと同じことを言っているものもあった。プレジデントという雑誌のネット版にも、これに関する記事があり「心拍数の低い人は粗暴傾向が大きい」などと書いてある。記事全体を読んでいないのでこの記事の意図については何とも言えないが、ビジネス系の雑誌に唐突にこんな記事が出るのはやはり問題だと感じた。たぶんネタがなかった馬鹿な記者が書いたものを、判断力の乏しい幹部が了承してネットに乗せたのだろう。こういう連中のおつむと心拍数の関係でも調べたほうがいいと思う。

 橘氏も著書の中で心拍数が低い人が知能や才能に恵まれれば、普通の人より人生で大きな成功をする可能性が高いのではと書いている。脳科学の進歩は驚異的で、将来何らかの医療的措置で人の行動を改善するような大きな可能性を示しているが、だからと言って安易に体や心に薬や刺激を与えて矯正を図ろうなどとはしない方がいいと思う。全く問題なく暮らしている人への差別やいじめを助長することにつながりかねない。心拍数が低い男からの願いだ。わたしがゴルフで握るのが好きなのは心拍数が低いからなのだろうか。