夏はまた来る

 今年の秋は暑い日があるかと思うと、どんより曇って寒さを感じる日があったり、どうもはっきりしない感じだ。それでも日照時間は確実に短くなっていて季節の変化を感じさせる。6時前に起きたりするとまだ暗いし、夕方も5時過ぎには暗くなる。朝ひんやりすると夏の暑い時が懐かしくなる。ゴルフに行く日などは着るものに迷うし、やはりゴルフは半そででやるのがいいなあと思うと、暑くて速く涼しくなれと思っていた夏の日も悪くないなあなどと勝手なことを考える。それでも季節の変化があることで生活に潤いが出来るのは事実だ。シンガポールに転勤した米国人がいつも変わらない気候にうんざりしていたようなのを思い出す。

 とても暑い日とかとても寒い日があってもわたしたちが我慢できるのは、季節は必ず変わりまた快適な日々が来ることが分かっているからだ。これがはっきりしなかったりすると耐えられないかもしれない。それなら南の国のように一年中暑いままで安定していた方が良いのだろうが、四季のあるこの国で暮らせることは本当に恵まれていると思う。

 日本では季節は必ず回ってくるのだが、年を取ってくると必ずしもそうではないのかもしれないと考えたりする。若い人にとっては自然の摂理と自分の生活実感はほぼ一致しているが、年を重ねるごとにそこにずれを感じるようになる。66歳のわたしはまだいろんな点で楽観的だが、それでも心の片隅には次の夏が必ず来るわけではないといった気持ちが生まれている。若いうちは当たり前のことが当たり前ではなくなってくるのだ。そして残された年月を考えるようになる。

 残りの日々は面倒なことに煩わされずに楽しく生きていきたいと思っているが、中々そうはいかない状況に出くわしてしまう。いろんな人が暮らす社会の一員なのだからやむを得ないのだとわかっているが、それでも年をとっても積極的に社会や組織とかかわっていこうとする人たちの様々なこだわりや欲求に接するとどっと疲れる。こっちより向こうの方が普通なのかもしれないと考えることで、どうにかやり過ごすという具合だ。

 そういえば交友関係も仕事をしている時は会社、ビジネススクール、大学関係が中心だったが、最近はこれに中学高校が入ってくる。大人になって知り合った人たちの中にもお互いに尊敬、信頼しあう仲間がいるが、大人になる前の時間を共に過ごした人たちとは、意識しなくても深いところでつながっている気がする。もちろんこれも相手次第で、クラス会などで会っていまだに敵愾心を燃やしたり仕事での自慢話をする人には辟易するが、気を許せる仲間とはおだやかで優しい時間が過ごせるようだ。おそらく元々も今も利害関係がないのがいいのだろう。また職業もまるで違うのが良い。世の中のことを何も知らない時にともに勉強したり遊んだりして、その後ずっと会うことなく、世の中のことがだいぶん分かるようになってまた一緒に時間を過ごして楽しいというのが何か不思議だ。親もいなくなった今、彼らとの関係にはわたしの原点のようなものがある気がする。

 いずれにしろ多くの知り合いと少ない友達はともに年を取り、いずれ全く一緒ではないけれど同じように最期を迎える、そんなことを考える年になった。みんなに回ってくる季節が来ない時が来るのだ。突然来るかもしれないし、徐々にそれを強く意識するようになりながらその時を受け入れるのかもしれない。さみしい気もするがそれでよいのだとしか思えない。出来るなら子供たちや孫たちが生きる世界が平和であってほしいと思うが、どうなるかなどとは誰にもわからない。わたしは自分なりに残りの人生を生きてゆくしかない。きっとまた夏は来るし、ゴルフや旅行もできる。そう思うと少し楽しくなる。

 それにしてもどうしてゴルフが上手くならないのだろうか。何でシャンクなんて出るのだろうか。