年寄りだって頑張れる

 2,3日前の朝、居間で一人テレビを見ていると階段をソロリトントンという感じで降りてくる足音が聞こえた。遊びに来ていた2歳半の孫が起きて母親(わたしの娘)に手を引かれて階段を下りてきたのだ。目覚めたばかりなのと階段を下るのは厄介なため、ゆっくりと慎重な足取りになっている。彼が階段を下る時の音は老人が下りてくるのと同じようにも聞こえる。わたしも何年かするとこんな感じで階段を下りるのかもしれない。

 しかし幼児の降りる動作はゆっくりで頼りなくても老人のそれとはまったく違う。幼児たちはたいていの場合もっと上手くなる過程なのに対して、老人は老いてゆく過程にいてもっと下手になるのが普通だからだ。老いてゆく側から見ていると、成長してゆく孫の姿には未来があり希望に満ちているようで幸せな気分になる。幼子は皆あどけなく可愛いものだが、老いつつある自分と比較して成長を感じられる孫は特に可愛いのだと思う。

 だからといって老人が漫然と年を取っていくことが良いわけではない。老人も何かを少しでも上手くやるとか進歩しようとか思えば気持ちが前向きになるはずだ。多くの人たちがそれに気付いているからカルチャー教室などはあれほど盛況なのだろう。麻生財務大臣が少し前に「90になって老後の心配とかわけのわからないことを言っている人がテレビに出てたけど、いつまで生きるつもりだよと思いながら見ていた」といつもの調子で言っていた。麻生氏が言いたいこともまあ分からなくはないのだが、やはりこの人は基本的に思慮が浅いのではないかと感じてしまう。確かに90歳になって老後を心配する人は滑稽だが、こんな気持ちを持って生きているからしっかりとした生活をしていけるという側面もあると思う。90歳でしっかりとしようと思ったらある種の緊張感は必要で、健康維持への意欲や、スポーツや趣味に前向きに取り組むのと同じように、更なる老後の心配をするのも意味ある事かもしれない。それを揶揄するのはスポーツや書道や囲碁などでもっと上手くなりたい思う老人を「年寄りのくせして何言ってんだ」というのと同じなのではないのか。

 毎日怠惰に生きているわたしだが、少しは資産の運用のことを考えたりゴルフの練習に行ったりすることで気持ちに張りが出来る。今18のハンディキャップを15にしたいと思っているが、高い運動能力を持っている人には簡単な目標でもわたしには中々大変だ。達成したからといって何が変わるのでもないがやはり目標を持っている方が楽しい。ギターもそうだ。最初に買ったギター教本はすべてマスター出来ないままに、ギターソロの楽譜本を買った。岡村明良というギタリストが編曲し自ら演奏している。40曲の楽譜があるがすべてが好きな曲でもないので自分で選んだ10曲でも弾けるようになりたいと思って練習を始めた。2か月に一つ出来るようになれば2年くらいで10曲はいけるかもしれない。もっとも弾けるようになるといってもお手本のようにクリアな音でスムーズに弾けるわけではないし、人に聞かせられるものでもない。それでも少しずつ弾けるようになるのは楽しい。早く新しいギターを買って下手なのを楽器のせいにしないようにしたいと思うとやる気も出てくる。

 年のせいで若い時のように体は動かないが、ゴルフやギターを練習して今より上手くなろうと思うだけで生活が楽しくなる。それは孫の成長を見る楽しみとは比べ物にならないが、まんざら捨てたものでもない。10年後、76歳になったとき今よりゴルフやギターが上手くなりたいと言ったら、麻生氏のような人は「年寄りのくせに何言ってんだ」言うのだろうか。訊いてみたい気がする。