団塊世代をどう捉えるか? (1)

 文藝春秋4月号に’第二の敗戦’ 団塊こそ戦犯だ という特集が組まれている。中々刺激的なタイトルなので興味を持って読んだが、その中の記事のいくつかには正直がっかりした。私が読んだのは四編の記事で、橋本五郎の「哲学と覚悟がなかった鳩山、菅」、川端寛の「団塊経営者の不作」、三浦展の「団塊よ、下流社会を救え」、藤吉雅春の「どうなる団塊後の日本」である。最初の二つは団塊の世代が持つ弱さゆえに政治、経営の世界で問題が生じたと論じているのだが、それは団塊の世代の問題なのか、例としてあげられた個人の問題なのかはっきりしていない。また三浦氏と藤吉氏の記事はもっと広い視野と客観的な事例を挙げて世代論を展開し、かつ建設的な提言を行っていて示唆に富んでいる。特に問題と考えられる二つの記事に簡単に触れ、世代論とはどうあるべきなのか考えてみたい。

   
 世代論が意味を持つ議論になるには、取り上げる世代をどう定義するかが明確でなくてはならない。歴史的、社会的、文化的な面から考察を加え、世代としてどんな特徴があるのかを明らかにする必要がある。これがないと自分の限定的な経験や、少ないが目立つ事例に見られる特徴をその世代の特徴として一般化することになりやすい。要するに独りよがりで客観性に乏しいものになってしまうのだ。

 橋本氏の小論はこう始まっている。‘団塊世代の政治家について考えるとき、一番の手がかりになるのは民主党政権でしょう’そして二枚看板だった鳩山由紀夫菅直人団塊世代であること、民主党政権が三年あまりで失敗したことを取り上げ、こう書いている。‘なぜ期待を裏切ったのかと考えたとき、団塊世代の持つ共通性が浮かび上がってきます’

 要するに民主党が失敗した原因は団塊世代の持つ問題点にあると言っているのだ。そして民主党の失敗の原因として以下の四つを上げている。
1.マニュフェストを実現できなかった。その理由を自民党時代の負の遺産のせいだといい、自分たちの甘さを反省せず、潔さがなかった。
2.内部対立がひどく、組織として政治を担う重要性を理解していなかった。
3.党として総理を支える体制がなかった。
4.そもそも政治とは何かが分かっていなかった。

 民主党が失敗した分析としてはそうかなと思っても、これからどうして団塊の世代の持つ共通性が浮かび上がるのかはわからない。ここにあげられている問題は民主党そのもの、民主党の政治家、そして鳩山、菅両氏の能力に関するものだからだ。
 橋本氏は優れた政治家の具体例として戦前生まれの政治家、福田赳夫中曽根康弘大平正芳田中角栄を上げている。彼らは大正生まれで団塊の世代の父親の世代である。何故彼らが優れているかの理由を次のように述べている。
1.田中角栄以外はエリートとしてのキャリアを約束されていたが重い責任を負っていることを自覚していた。
2.深い教養と精神性を持っていた
3.自らの原点としての故郷を持っていた

 鳩山、菅の両氏は上記を持っていなかった。そして何故か突然、団塊の政治家にはこれを持っている人がいないと結論づける。また団塊以降の政治家は日本が厳しくなる時期に政治家を目指したので、団塊の政治家よりも強い覚悟を持ってやっている。それは安倍晋三野田佳彦を見ると分かる。要するに団塊の世代だけがエリート性もないし、教養もないし、覚悟もない、だからダメなのだ。これが橋本氏の論旨である。これで‘そうだ、やっぱり団塊の世代はダメなのだ’と思う人がいたら相当にうかつな人だろう。少数の事例を挙げて全体を論じて結論を出すというまったく客観性のない議論の典型といえる。
 
 そこで橋本氏よりもう少し総理大臣経験者の範囲を広げてその生年を見てみよう。団塊の世代とは普通1947年から1949年の三年間に生まれた人達を言うのだが、1947から1951年の生まれとする説もあるらしい。(1950年生まれの私は後者の定義なら団塊に入る)過去二十年位の総理を見ると確かに団塊生まれはこの鳩山、菅の二人だけである。他の総理たちの誕生年は下記のとおりである。

細川護煕(1938年)、羽田孜(1935年)、村山富一(1924年)、橋本龍太郎(1937年)、小渕恵三(1937年)、森喜朗(1937年)、麻生太郎(1940年)、小泉純一郎(1942年)、福田康夫(1936年)、鳩山由紀夫(1947年)、菅直人(1946年)、野田佳彦(1957年)、安倍晋三(1954年)

 団塊の二人以前の総理は9人だが、村山富一だけが大正生まれで、他の8人が1935年から1942年の間の生まれで、その中の5人は1937から1938年の2年間に生まれている。昭和12年から13年というところで、昭和25年から30年に中学高校に通った世代だ。何が言いたいかというと、サンプルも多くこの人達の世代分析をした方がまだ有効だということだ。また少し後の麻生、小泉の世代の分析もして、団塊との比較をすべきだろう。(彼らも戦前生まれの世代だ)

 そうした分析の結果、団塊の世代の政治家が明らかに劣るとしたら、分析の範囲を政治家から経営者、科学者、芸術家、スポーツ選手と広げ、団塊は世代として劣っているのか、それともある分野だけがそうなのか、もし後者ならその理由はなぜかなどを論じるべきである。

 しかしそんな面倒くさいことを言わなくても、上記の元総理達が団塊の政治家と比べて明らかに有能などとはとても言えないのは明白だ。無能なせいか、橋本氏が言う覚悟がなかったせいか、簡単に総理の職を投げ出した人がいる。ろくに字が読めず教養があるとは言えない人もいる。留学したので自分では英語がうまいと言いつつ、聞いていると恥ずかしくなるような英語を話す人がいる。上記の人たちについてはその他にもお粗末な点を上げたらキリがない。鳩山、菅に比べたら少しはマシなのかもしれないが、それだけでこの世代(昭和10年代生まれ)が団塊の世代より良いということにはならないだろう。こう見ると橋本氏の世代論には妥当性がないことはすぐに分かるのだが、もう少しまともな議論にするには上述したような分析が必要だといっているのだ。
 
 また橋本氏が覚悟があると言っている安部総理についても彼の言動が日本のためになるかはもう少し長いスパンで見ないと分からないはずだ。特に最近の集団的自衛権憲法解釈論などは歴史的な妄言になる可能性すら感じる。鳩山、菅という特殊な二人と比べただけで安倍の世代が団塊より優れているなどとはとても言えない。政治家の業績はある期間で見ないと評価できないのは、圧倒的人気を誇った小泉純一郎を見ても明らかだ。彼が主導した郵政民営化道路公団の解体は、彼自身にこれらの組織のどこが問題でどう変えたいかなどの見通しや哲学があったわけではなく、単に彼の政治的野心を達成するための人気取りの手段であったに過ぎないことは、その後の二つの組織の変化や現状を見ると明らかだ。小泉は同じことを今回の都知事選でやろうとして失敗している。


 川端氏の「団塊経営者は不作である」にも同じ問題点が見られる。ある少ない事例をもって全体を論じようとする誤ちだ。氏の小論は次のように始まっている。‘団塊の世代の経営者は不作である。全共闘世代でありながら、「理想で飯は食えぬ」と運動に背を向けて勉学に励み、迷うことなく大企業に入った。何千人という同世代との出世競争を勝ち抜いて社長に上り詰めた。だがトップにたどり着いたとき、彼らは、はたと気づいたのである。「自分はいったい何がしたいのだろう」’

 この情緒的な書き出しで言っているのは、団塊の経営者は全共闘世代なのに学生運動もせずに勉学に励み(ここには非難の響きがある)大企業に入り出世競争を勝ち抜いたが、出世競争に勝つ能力を持っているだけで将来のヴィジョンを考える能力がないということだ。川端氏は学生運動をした人間のほうが、その後立派な仕事をした、または将来のヴィジョンを持っていると言いたいようだが、それが証明できるのだろうか。(後段で東大全共闘のメンバーだった小川健太郎が牛丼の‘すき家’を成功させているのをあげているが) また出世競争に勝ち抜くことと将来のヴィジョンがないことはどう関連しているのだろうか。そもそも今の時代に将来のヴィジョンや競争に勝ち抜く戦略などを簡単に提示出来るのだろうか? 経営学者やジャーナリストがいろいろ書いているが、その殆どは成功事例を取り上げた後付け理論で、それなら先に言えよといっても何も出てこないのが現実だ。要するに今のように変化が激しい時代で、勝つために有効な次の手を打てるかどうかは世代の問題ではないのだ。

 氏はこう続けている。‘日本企業衰退の原因を作ったのは驕り高ぶった「ジャパン・アズ・ナンバーワン」世代の経営者だが、敗北を決定的にしたのは団塊世代の経営者である’ 川端氏はこの後で具体的に三人の経営者をあげて、彼らが社長として所属する企業の危機に有効な手を打てなかったから、団塊の経営者はダメだと言っている。これらの経営者とは、ソニーの中鉢氏、東芝の佐々木氏、日立の古川氏である。上記の驕り高ぶった経営者とはソニーの出井氏、東芝の西田氏、日立の庄山氏で、要するに凋落著しい日本の電機大手企業を例にとって団塊の世代を論じているわけだ。先の橋本氏と同じで、この三人がそうだから団塊はダメだというロジックである。

 川端氏のロジックがより杜撰なのは、この三人が本当に無能かどうかを正しく検証していないことだ。上記の電機三社が経営危機に陥っていたのは事実だが、それは簡単に解決できるほどの状況ではなかった。また電機業界全体の問題でもあった。要するにほかの誰がやっても有効な手を打てたかどうかもわからないし、この三氏が特に経営者として劣っていあたかどうかはわからないのだ。にもかかわらず、この三氏をもって団塊の世代を論じようとするのだから呆れてしまう。

 ソニーについて言えば出井氏が会社の強みを捨てるような経営を行い、かつ自らの失敗を糊塗するために後任にストリンガーを指名したことが、現在の衰退の原因だというのが定説だ。そうした状況で権限のない社長職についた中鉢氏が出来ることは限られていたはずだ。別に中鉢氏がソニーの敗北を決定的にしたわけではないだろう。出井氏が後任に伝説の人である久夛良木健氏を指名していたら、ソニーの敗北は決定的になっていたかどうかは分からないのだ。
 氏はこうも書いている。‘だが経営者には巡り合わせがある。どんな環境下で、誰の後に社長になるか。それ次第で経営者の評価は大きく振れる。その意味で三人は不運だった’これを書くならこの三人から団塊の世代論などすべきではない。論理的な一貫性がない。また上述した‘すき家’の小川氏は東大全共闘だった団塊世代だが、川端氏はこの成功を元全共闘の面目躍如と言っている。団塊はダメだが全共闘出身は良いというロジックを一つの例で示そうとしている。また‘すき家’の経営とソニー東芝、日立の経営を同じレベルで論じることの無理にも触れていない。牽強付会というかほとんど意味のない世代論になっている。

 川端氏の議論が橋本氏と似ている点がもうひとつある。それは団塊の世代を飛ばした業界の経営者の評価だ。その例としてあげているのが、自動車業界でトヨタの豊田氏、日産のゴーン氏、ホンダの伊東氏である。彼らは1953から1956年の生まれである。だがこの例と上記の電機大手の例を比べて団塊後の経営者が優れていると言って良いのだろうか? 豊田氏は豊田家の出身だし、ゴーン氏は倒産寸前の日産が社内に適任者がいないために招かれたわけで、二人ともその状況的に思い切った手を打つことができたのは間違いない。またホンダにしても、簡単に研究開発の社風を捨てたソニーとは違い、創業者のモノ創りの精神を大事にしてきた。だからこれらの例をもって団塊の世代はダメなどというのは乱暴すぎるのだ。川端氏の小論は世代論というより下世話な企業人事話と解釈すべきだろう
 

 当たり前のことだが、どの世代も突然出現したわけではなく、歴史の中でそこに生まれて、その歴史的、文化的背景ゆえに世代の特徴を持つことになる。団塊の世代はそうした一般的な背景に加え、極めて数が多かった、戦前の価値観が全く否定された状況で教育を受けた、戦後の廃墟から日本が復興を遂げる中で育ったという特殊性があると言われている。
 後の二つの記事、三浦氏と藤吉氏のものはそうした点を踏まえ示唆に富んでいる。次回はこの二つを紹介し、団塊の世代を理解するにはどうすべきかを考えてみたい。