世界を知ることの意義

 石川遼アメリカでの全米オープン予選会で落ちて、全米オープンへの出場が出来なくなった。これまでメジャー大会に15回連続して出場していたのが途切れたわけである。もっとも石川の連続出場は不明朗な世界ランキングの基準(日本ツアーのポイントが高すぎる)と主催者の特別招待によって実現してきたのだから、これで本来の実力に見合ったところに落ち着いたというのが本当のところだろう。

 こうした結果は石川が日本ツアーを離れ、米国ツアーに参戦したことで起こったことである。言い換えれば彼の本当の実力が分かった結果である。石川は残念だろうが、最近の彼を見ているとプレーの仕方、インタビューの受け答え、表情ですら以前よりはるかに大人びていて(matureして)、成長を感じさせる。肝心の英語も日本でわけのわからない英語教材のコマーシャルをしていた時に比べるとすっかり上手くなっている。予選を通るのがやっとという状況で日本にいた時には考えられない苦労をしているのだろうが、その苦労に見合うものを身につけているように思えるし、もう一年もしたら立派な国際的プレーヤーになれると思う。

 ゴルフジャーナリストの船越園子が書いていたがアメリカに来た頃石川は次のように言っていたという。「予選通過を目指して米国に来たわけじゃない。優勝争いをするために来たんだ。米国で100位で10年間シードを取りたいとは思わない」4月のマスターズの時にも書いたが、何たる傲慢さ、何たる世間知らず、何たる田舎者と言われてもしようがないだろう。何故なら石川の現在の実力は米国ツアーで予選を通るのがやっとなわけだから。今石川はその現実を受け止めて、まず予選を通るゴルフをして少しでも上に行こうとしている。
 2年前の日本ツアーの賞金王である、韓国のベ・サンムンが今年バイロン・ネルソンで初優勝した。石川も今の努力を続ければ、きっと優勝争いが出来るようになると思う。

 石川にとってアメリカツアー参戦が良かったのは技術的な進歩、難コースへの慣れ、米国生活への適合など多くの点があるが、なによりも世界の中で自分の位置づけが理解できたのが大きいと思う。自分の位置とは技術や精神力、周りの評価などすべてを含んでの話だ。今までは日本で取り巻きやスポンサーにちやほやされて見えなかったものが初めて見えてきたのだ。おれも中々だけど世界ではまだまだなんだということを身をもって体験して、本当のトップを目指そうともがき始めている。これはとても大事なことだと思う。

 日本の社会を見ていると狭いところで成功して自分を見失う人がいかに多いかが分かる。スポーツや芸能の世界では日本と世界との差がとても大きいので、多くの人が世界で戦うことのむずかしさを実感しているようだ。(石川遼のように若くして国内でトップに登りつめ、また世界も見すえていた選手は少ない)しかし、政治などでは国内で成功してその感覚で世界でも通用するだろうと考える輩が多い。日本が経済的に成功して大国として扱われるだけに余計そうした勘違いが多くなるようだ。

 最近の橋下徹猪瀬直樹の言動はまさにその典型だ。国内ではお山の大将でいて威張っているが国際的感覚はゼロだというのを露呈してしまった。また愚かで不注意な発言をしても問題にされるまではそれに気付かない、また問題になった後でもそれを国内と同じやり方ですり替えができると考えた辺りはまるで同じで、要するに田舎者だとしか言えない。

 彼等の問題すり替えが成功しなかった理由を考えるととても興味深い。橋下氏はあの馬鹿発言をこともあろうに米軍の司令官に対して発してしまったし、猪瀬氏はNYタイムズのインタビューで不用意な発言をしてしまったのだ。国内相手だったらどうにか火消しも出来たのかもしれないが、外国のメディアが絡んだので抑えきれなかったといえる。

 橋下氏の出自の問題を週刊朝日が取り上げて批判されたが、朝日や執筆者の佐野眞一氏に不用意な点はあったとしても、その時は日本の将来の総理候補と言われた橋下氏の言動がその出自と関係があるかないかは重要な問題を含んでいたはずだ。それを朝日は橋下氏にチョット脅されると簡単に白旗を上げて降伏してしまった。その対応は戦時中に軍に屈服をした時の朝日新聞と何も変わらない気がした。悪い点は悪い、しかしこうした考え方もあると何故議論をしなかったのだろうか。そうした議論を通じて出自の問題を含めて、橋下氏の言動に是非についてもより深い展開ができたのではないかと思う。一見良識的で威勢の良いことをいう日本のマスコミの本質を見せられた気がする。

 猪瀬氏もNYタイムズに対して意図を曲解された旨の発言をしたが結局認め謝罪した。その後サンクトペテルブルグでのオリンピック誘致のプレゼンテーションで失地挽回とばかり英語でのスピーチをやったが、これについては日本のマスコミはとても好意的だった。わたしもそのプレゼンテーションを見たがまるで感心せず、田舎の英語教師が生まれて初めて沢山の外国人を前に英語を話しているという印象だった。妙なジェスチャーも痛々しく、教養と地位のある人はあんなプレゼンテーションはしないと思わざるを得なかった。日本のマスコミは猪瀬氏の何が怖いのか分からないが、もう少し本当のところを伝えるべきなのに出来ないのは何故かと考えざるを得ない。

 いずれにしろこの二人はこの程度の国際感覚なのだから、今後は国内の問題に専念させてあまり海外にことにはかかわららせないのが良いと思う。若ければ石川のように海外へ修業に行くのが良いのだろうが、この二人では遅すぎるし、本人たちも望んではいないだろう。政治家の重要な資質は民の声を聞くことだから、必ずしも国際感覚は第一条件ではない。しかしこれだけグローバルな時代になっているのだから、政治家に求められる言動について欧米ではどうか、アジアではどうかという程度の判断力を持っていないとまずいだろう。この二人にはそれが決定的に欠けている。そしてその点を追及すべきマスコミはまるであてにならない。選挙の時はよほど考えてまともな人間に投票する必要がある。

 最後に言っておきたいのは、橋下徹猪瀬直樹を同列に扱って批判したがそれは今回の件、国際的なセンスについてである。これまでの実績としては猪瀬氏に圧倒的に軍配が上がると思う。橋下氏はテレビでその場限りの発言をしまくって視聴者の注目を浴び、その流れで大阪府知事になっただけの人である。人前での口喧嘩の仕方、それを勝ったように見せる方法には大変な才能を持っているが、政治や人生へのまともな哲学があるとはとてもおもえない。今回の愚かな発言もなにも深い考察なしに、その場限りの発言を続けてきた一環だと考えれば分かりやすい。いずれにしろ信用できる人とは思えないのだ。
 
 一方猪瀬氏は品格やスマートさには全く欠けるが、ジャーナリスト・作家としては一流の仕事をしてきた人物だと思う。彼が問題をとらえる視点や、資料を潰して分析するやり方はとても感心するほどだ。問題はそのジャーナリストの感覚で政治的権力を持ってしまったことだと思う。政治家だから何でも出来る、大概のことはしても許されるという感覚があるようだ。政治家には政治家として自らを律しなくてはならないやり方や範囲があるのだが、そしてそれは必ずしも一般社会と同じではないのだが、そのあたりの感覚が備わっていないようだ。それ故に時々とても傲慢でとても下品に感じさせてしまう。ここら辺は教えて身につくのか、育つうちに身につくのか良く分からない。しかし安倍晋三とか石波茂 とか谷垣禎一とかが持っている何かが決定的に不足している感じがせざるを得ない。

 この二人の今後にはとても興味を覚える。しかしその一つの決定権を持っているのは有権者なのだ。この国をまともな国として維持してゆくのにはこの二人が本当に必要か、どんな仕事なら任せて良いのか、わたしたちは十分に考えて行動しなくてはならないだろう。