反ポピュリズムとは

 「文藝春秋」九十周年記念号に中野剛志が「反ポピュリズム」というポピュリズムという論文を書いている。ポピュリズムの定義には色々あるだろうが、中野は大衆迎合という今の日本で最も分かりやすい意味で議論を展開している。
 このタイトルが意味するのは、政治家が大衆に迎合せずに自らの信念に基いた政策を訴えても、大衆に迎合していないという姿勢それ故に大衆の支持や信頼を得てしまう皮肉な状況を言っている。中野はこうしたポピュリズムの罠にはまって、反ポピュリズムを標榜しながらも実はポピュリズムになっている例として、読売新聞の渡邉恒雄氏をあげてそのロジックを批判している。

 中野は特に渡邉恒雄の消費税増税の必要性を訴えるやり方が、反ポピュリズムと言いながらもそうではないという。その理由として自社の新聞で自らの主張の妥当性を繰り返し述べた結果、増税に対する国民の理解が高まっていること、また渡邉の主張そのものの理論的な正当性に疑問がある事を上げている。要するに反ポピュリズムとして’大衆受けはしないが正しい政策だ’という論理が、’大衆は十分理解している上に政策そのものが正しくない’という点で、破綻していると言っているのだ。ここでは政策の正当性の議論には立ち入らないが、ある言葉によるレッテル付けは、その言葉の意味や効果を十分に理解しないで使うと極めて危険だということを強調したい。

そもそもこれだけ意見が多様化している時代に、また一般の国民の中に高い知的能力を持った人の数がふえているのに、国民は消費税増税に反対だと単純に考えて、消費税増税を言うことが反ポピュリズムだと考えているとしたら、もうそれだけで世の中とずれているのだ。大新聞社のトップがそうだから、新聞そのものの信頼性もなくなっていることに新聞関係者は早く気付くべきだ。権力を持つ人たちのこうした態度は、物事に真剣に立ち向かい本質的な議論をするという姿勢に欠けていることに起因しているとしか考えられない。

 具体的には今回の選挙での論点になった原発問題への政治家(政党)の発言がそうだ。脱原発だとか卒原発だとかつまらない言葉遊びに終始して、この国のエネルギーを中長期的にどうするのかという、具体的で責任のある議論はまるでなかった。脱原発といっておけばとりあえず良いと言った姿勢で、原発を本当に完全に止めた場合に何が起こるか、その時どう対処するかといったこと、本当に国民が知りたいところが全く話されなかった。

 自然エネルギーに移行するとか、今年を乗り切れたのだから知恵を出せば原発はいらないなどという主張は、高校生のレベルなのではないのか。化石燃料への依存度を上げなくてはやっていけないことは明白なのに、化石燃料の確保の手段や価格の見通しも議論せず、さらに化石燃料への依存度を高めることの安全保障への影響も話されなかった。

 子供だって原発の安全性を心配して、原発に依存せずに今の産業や生活を支えるエネルギーがまかなわれるならそんなに良いことはないと思っている。しかし同時にそう簡単に原子力に代わる安定的で確実な燃料がないことも知っている。そんな時脱原発をやりますと言うだけなら、それは救いがたく稚拙で想像力を欠いたポピュリズムだろう。政治家たるもの、代替燃料はこうして調達してゆく、そのコスト増はこうやってまかなうという計画を示して、それぞれの案を比較して、その妥当性を議論すべきではないのだろうか。こうした議論を聞いた上で政党選択をしたいと思ったのは私だけではないと思う。

 反ポピュリズムのように、相手を攻撃するための効果的な言葉というのはこれまでも色々と使われてきた。問題は使っている本人もマスコミも、そうした言葉が本質的に何を意味するのかを正しく理解しないので、そうした言葉がもたらす結果については良く分かっていないことだ。中野剛志は渡邉恒雄のような議論が日本の経済的混迷を長引かせたと批判している。この指摘はもっと真剣に議論されて良いように思える。次回ではこれまでに反ポピュリズムのように使われた言葉について考えてみたい。