反ポピュリズムと似たような言葉

 ’そんなのはポピュリズムだ’と言って相手にレッテルを張り、マイナスのイメージを植え付けようとするやり方をする政治家やマスコミ関係者を見かける。しかしそう言っている本人が、反ポピュリズムを装いながら反ポピュリズムが大衆に与えるプラスの効果を計算していることで、実質的にはポピュリズムにどっぷりはまっている矛盾を前回取り上げた。反ポピュリズムを装う人達はその矛盾に気づいていて確信犯的にやっているのか、単なる愚か者なのかは分からないが、それを聞く一般大衆の多くがその矛盾に気づいていることは十分理解しなくてはならないだろう。


 思えばこうしたある種のレッテル貼りをする言葉は今までもあり、色々な形で使われてきた。例えば守旧派という言葉がやたら使われたことがあった。これは中選挙区をやめ小選挙区に移ろうと小沢一郎などが画策した時、それに反対する人達に対して使われた。あたかも反対する人達は従来のやり方に固執し、既得権益を守ろうとする悪人だと言わんばかりの響きがあった。
 しかし今小選挙区の弊害が叫ばれ、中選挙区の良さを見直そうという動きが強くなっている。確かに最近の選挙の結果に見られる、得票数の割合よりも議席数がはるかに多くなる傾向は小選挙区の弊害だろう。あの時小選挙区反対者を罵るように使われたのは正しかったのかなどとは誰も検証しない。


 また小泉純一郎が使った抵抗勢力と言う言葉もあった。これは規制緩和に反対する人達へのレッテル付けに小泉純一郎が使い、マスコミが追従したものだ。巨額の郵便貯金を狙ったブッシュ政権(米国の金融機関の依頼で動いた)が郵政省の解体をせまったことに、小泉首相が対応したのが事実だろうが、小泉首相はこれだけではいかにも露骨だと考えたからか、より大きく規制緩和とうたって反対派を追い落とそうとした。小泉改革がお粗末なのは郵政省の解体は叫んでも、その後どういう組織にすべきかという展望なり哲学を持っていなかったことだ。その結果今の郵政事業が官僚の手を離れて民間事業として上手く運営されているとは誰も言えない。一言でいえば無責任な解体だったのだが、その成否をまともに検討しようという動きはない。抵抗勢力は本当に悪だったのか、少なくともわたしには判断できない。

 もっとさかのぼるとわたしが学生だった頃には’体制的’という言葉がやたら使われた。これは学生運動やデモとかストライキに批判的な態度や意見を言うものに対して浴びせられる言葉であった。まさに守旧派抵抗勢力と同じ意味を持ち、現体制を守ろう、資本主義体制を守ろうとしているという意味で’体制的’という言葉が使われた。
 思慮が浅く、当時の空気に染まって左翼的姿勢を見せていた学生が沢山いたので、デモに反対する人を体制的だと言って反体制を主張する学生は、キャンパスや学生の中では圧倒的多数でまさに体制的だったのだ。一部の賢い学生を除いてほとんどはその矛盾に気づきもせず、無邪気に人を批判していた。資本主義でない体制において、その体制を支持する人は反体制ではなく体制的だという事実、すなわち社会主義体制下では社会主義を批判することが反体制であるということなど考えもしないようだった。そうした考えの浅い学生は卒業が近づくと大企業への就職を狙って色々と活動を始めたものである。

 こう考えるとある種の言葉によるレッテル貼りには注意しなくてはならない。人はそういう言葉を使うことにより、一種の思考停止状態に陥る。もうややこしいことは考えなくても良いというのはとても魅力的なのだ。だからこうした言葉がはびこるのだろう。それをチェックすべきマスコミもまるで役に立たないのが問題だ。
 日本の戦闘機が真珠湾を攻撃したというニュースを聞いた作家が、暗雲が去ったようなすっきりした気持ちがしたといったのは有名な話だが、人間とはこういうものだろう。中国が尖閣で挑発的な行動をとるニュースを聞くたびに不快な気持になり、やがてそれが心の底にたまってゆく。これはとても危険な状況だ。あまり長くそれが続くと、心にたまったものを一掃するような行動が望まし感じるのだ。そんな時にある種の言葉が政治家によって語られ、マスコミがそれに追従するとまさに太平洋戦争の再来になりかねない。安倍首相やその側近がどんな言葉を使うか、その意味や効果を冷静にチェックしてゆくことを忘れてはいけないと思う。