東北関東大震災(1)

 今回の大震災の時、わたしはたまたまヨーロッパにいた。インターネットやCNNで地震津波の情報を得てはいたが、被災地の本当の深刻さが分かったのは、やはり帰国して様々な報道(主にテレビ)を見てからだった。地震が起こった時に、日本にいなくて安全なところにいたと言う事実は、私にとってある種の心理的負担になった。被災した人達への申し訳なさと、首都圏にいたら体験したであろう恐怖感や不便さと無縁であったことに対する後ろめたさのようなものだと思う。この気持ちに折り合いをつけるためには、人の運とか不条理とかをあらためて考えるプロセスが避けられないのだと思った。

 抗がん剤の議論のところでも書いたことだが、人はいつか必ず死ぬという事実に普段私たちは目をそむけている。アフリカの国では寿命が40歳のところもあるが、私たちはそのことにあまり関心を抱かない。同じ命なのに他人事である。一方、今回の大震災はその惨状が毎日のように報道されている上、すぐ近くで起こったことなので、ものすごく関心が高く自分のことのように感じ悲しむ。貧しい国では日常的である死が、自分のそばで突然大量に起こったことに狼狽して激しいリアクションをする。私はそれが悪いと言っているのではない。ある意味で当然である。しかし同時に、同じ死に対して私たちがこうした関心の違いを持つという事実を認識し、自分たちの感情や行動について冷静な目で見つめ、評価することは大切だと思う。


 こうした震災が起きるといたずらに正義感を押し出し、被害者への同情をあらわし、喪に服するような行動をとることを強要する人が現れるが、わたしはそういう人を信用しない。私自身も被災者の惨状に悲しみを覚え、積極的な援助活動が出来ない自分を無力に感じ、何が出来るのかと問いかける。私の何とかしたいと言う感情は多くの人と同じように真実だが、そうした思いを持つのは暖房が利いた部屋でテレビの報道を見ながらである。その事実は私の支援の気持ちの確かさと同じ位、結局この震災に対しても第三者なのだということを思い起こさせる。しかしわたしはそれでいいのだと思う。その中で自分たちに出来る支援を行いつつ、私たちは普段の生活をしてゆくことが、結局最も有効な再生につながるのだと考えている。


 テレビのキャスターは臨戦態勢で報道を続けている。しかし男性はきちっとしたスーツを着て、女性は完ぺきな化粧をしている。それは当然のことで彼等がよれっとしていたら見る方も気が滅入ってくる。彼等は普段通りにこの大惨事を正確に伝えるのが役割なのだ。彼らに求められるのは、何のために、誰のために、大震災の現状や真実を伝えるのかと言う基本的な姿勢である。節度あるきちっとした身なり(英語で言うところのdecent)であることは大切である。

 私たちも必要以上に生活を変えるべきではないと思う。それでなくとも東北、北関東では経済活動が停滞する。ほとんど被害を受けなかった私たちまで縮こまっていたら、この国の経済はますます悪化するだろう。復興に必要なのは経済支援であり、そのためには日本の経済活動が活発でなくてはならない。それにブレーキをかけるようなことはしてはならないだろう。

 
 菅総理はブルーの作業着を着て奮闘している。しかし私はスーツを着ていてもリーダーシップを発揮して、的確な対策を取ってくれたら構わないと考えている。菅内閣が批判されるのはそうしたリーダーとしての対応を見せずに、この機に乗じて自らの手柄を立てようとしているように感じさせるからである。ハンガリーでよんだWall Street Journalのヨーロッパ版には、この危機における菅首相のリーダーシップについての記事が載っていた。阪神大震災の村山首相の愚は犯さなかったが、リーダーに求められるコミュニケーションや大局的な判断に欠けると言った内容だったと思う。


 今回の大震災はその規模(特に津波)において千年に一度と言った想像を絶するものであったこと、その結果原発の大きな損壊と言う初めての事故が伴ったという点で対応が難しいのは明らかである。国家をあげて取り組むべき難事なのに、リーダーが責任転嫁のような態度で東京電力を批判したりし、マスコミもそれに同調している。誰かを悪者にするのは国民の溜飲を下げるのには効果的だろうが正しいあり方とは思えない。次回は菅首相民主党の今回の大震災における自衛隊東京電力への対応があきらかにした政権与党の体質的な問題点を論じたい。