「抗がん剤は効かないのか」論議について(2)

 前回、近藤誠医師の「抗がん剤は効かない」説が多くの人達に支持される理由として一般人の医師に対する不信があると述べた。全般的には医師への信頼は強いものの、多くの人が患者としてまたは患者の家族として医師との関わりの中で、不快な経験をしていることがあるからではないかと思う。少なくとも私の場合はそうだ。印象に残る立派な医師達との出会いも少なからずあったが、同じ数くらい不快な経験もした。その多く場合、患者として不安や痛みをを持っている時に「あなたの病気などは大したことはない」といった患者の気持ちを逆なでするような態度をとったり、質問をしたり意見を言ったりした時に「余計な事を聞かずに黙って言う通りにすればよい」といった反応をしたことによる。そんな時、この人は患者の不安や痛みなどには全く興味がないのだなと感じたのものである。

 中には態度そのものが傲慢で礼儀を知らない医師もいる。しかしこの類はどの分野にもいるので、官僚などで程度の悪いのよりはましかもしれないと考え、「偏屈な職人と思うことにしよう」とまともなコミュニケーションを期待しないようにしている。

 このような患者の気持ちを慮ることが出来ない医師に会った経験から、多くの人は医師に対して、患者のことを考えるのではなく、がんなどの病気の治療をしたいだけなのではといった不信感を持つのだと思う。問題は医師の方でそうした患者の気持ちにも気づかず、自分は患者のために良かれと思って色々と考え治療をしていると考えているようなところだ。特にがん治療などは患者にとっては、命を賭けた戦いであり、そうだからこそつらい治療も受けようと考えるのだ。医師の側からはそうした患者の気持ちを考えた対応がなされるべきだろう。しかし医師にとって患者は多くのサンプルの一つにすぎないという態度が垣間見えることがある。こうした経緯があるから、多くの人は近藤医師の論文の正誤は判断出来なくても、彼が提起している問題の重要さを理解し、それを支持するのだと思う。
 がん治療のためだけではなく、患者の人生にとって最良の選択は何かという問いに対して答えを出そうとする態度が医師に求められているのだ。言い換えれば医師が患者と人間として対等な関係を作ろうとしない限り、この問題は解決しないだろう。

 がんのような難病に関してもう一つの本質的な問いは命とは、寿命とはと言うことだろう。人生は不可解なものだが、一つ明白なのは人は必ず死ぬことだ。金持ちだろうが、美人だろうが、有名であろうが、人は必ず死ぬのだ。がんにかかった時など、人は早かれ遅かれ死ぬという感覚を持つか否かで治療に対する考え方も変わってくると思う。別に全ての難病に対してあきらめろと言っているのではない。しかし人間には天命のようなものがあると思う。子供で死ぬことも、二十歳で死ぬことも、四十で死ぬこともある。病気のこともあれば、事故にあうこともあり、戦争で死ぬ人も多い。不合理と言えば不合理で、不公平と言えば不公平だ。人はこうした不合理に対して人智の及ばない力が働いていると考えてきた。宗教は不幸な人生であっても、死後には幸せがあるかもしれないと言って人々に救いを与えた。その救いは幼くまたは壮年で不幸な死を遂げた人や、残された家族にとって大事なものだった。
 
 医学の進歩により昔は不治の病と言われたものの多くが助かるものになった。がんもいずれそうなるかもしれない。しかしいかに医学が進歩しても人は死ぬと言うことは変わらない。また長生きできるようになったとしてもそれが幸せかどうかは分からない。簡単に言えば、人生とは死ぬまでを如何に過ごすかということだと思う。精いっぱい生きて後は天に任せるといった生き方なり考え方をもう一度見つめなおすべきだと思う。

 テレビのニュースなどで医療や健康保険の問題を取り上げる時、医療費の負担などに関して「金持ちしか治療を受けられないのはおかしい」といった論調がみられるが、そのたびに少し違和感を覚える。それを言うならアフリカの多くの国では平均寿命が40歳くらいなのを忘れてはいけないと思う。明らかに豊かさと命の長さには相関がある。アフリカの人達が金持ちしか治療を受けられないといえば私たちは本当に返す言葉がない。こうした地域、国との経済状況の改善は本当に緊急性が高いと思う。(その意味では国境のない医師団の活動の重要さは、がん治療に従事する医師以上だと思う)私たちががん治療について議論する時は、恵まれた環境にいる限られた人間の議論であることを認識しながら行うべきだと思う。