「抗がん剤は効かないのか」論議について (1)

 会社の先輩(A氏としよう)ががんで亡くなった。年に1-2度会って食事をして他愛のない話をする仲だが、楽しいお酒を飲む方だった。一年以上前だが最後にお会いした時の話題が、慶応大学の近藤誠医師の「がんもどき論」についてであった。素人の私が理解するところでは近藤氏の主張は、がんといわれるものには2種類あって'本当のがん'と'がんもどき'であり、'本当のがん'は今の医学では治療しても助からない、'がんもどき'は治療してもしなくても生存率には大差がない、ということである。従って氏の説に従うと、がん治療はたいていの場合無意味であるということになる。

 A氏も私も医師ではないので、自分ががんになった時にどう対処すべきかという点からこの問題を考えていたが、ともに近藤氏の意見には強い関心を持っていた。A氏は近藤説の信奉者で何冊か氏の著作を読んだと話していた。当然のことだが彼は自分ががんになったら、がん治療はせずに苦痛を和らげる方法を選ぶと言った。私は近藤氏の主張は重要な点を突いているが、あまりに話を単純化していて全面的に信じてよいかは疑問だと言って少し議論になった。その後一年ほど会っていなかった状況での訃報である。A氏は自らのがんに対してどんな治療を選択したのだろうと考えた。

 近藤誠氏は最近も文藝春秋の一月号で「抗がん剤は効かない」という論文を書き、二月号ではその内容について立花隆氏と対談をしている。近藤氏の主張に対しては週刊文春に鳥集徹という人が、国立がん研究センターの勝俣腫瘍内科医長とテキサス大学がんセンターの上野教授の意見を元に書いた反論が載り、近藤氏はそれに対し翌週号で反論を書くといった具合で議論を巻き起こしている。
 私とA氏が一年以上前に議論したことがまた最近注目を浴び、そのA氏ががんで亡くなると言う展開に不思議な気持ちを持ち、あらためて最近のがん治療論争を興味を持って読んだのである。その中で私が感じたことをまとめてみたいと思ったが、医学の知識もなく、また突き詰めると'そもそも死とは、寿命とは'と言った問題にもつながることだけに、私の能力を超えるようで中々上手く議論を整理できなかったが、以下は現時点での私の気持である。

 近藤氏の立場は一貫していて、抗がん剤は一部のがんを除いては有効ではないとしている。有効であるとして国が認可した薬についても、認可のベースになった臨床試験の信憑性に疑問があるか、試験結果のデータ解釈に問題があり、それらの薬の投与により患者の寿命が延びたという証拠は全くないと言っている。それどころか抗がん剤治療により寿命を縮める患者が少なからずいて、有名人では梨元勝氏や筑紫哲也氏がそうした疑いがあると主張している。近藤氏は抗がん剤の有効性が立証されればその使用に異存はないが、そうでないなら命を縮めるリスクのある、もしくは縮めなくても強い副作用のリスクがある薬を使用するのは患者のためにならないと言う。氏はさらにこうした問題の背景として、がん治療では医師が患者の利益より、製薬会社から入る経済的利益を優先していることがあるとさえ言っている。

 当然のことながらこうした近藤医師の主張へは強い反論があり、その一つが前述の週刊文春の記事となっている。この記事では抗がん剤の有効性を認め、延命効果がない場合でもがんの増悪を抑え患者の症状を緩和する効果があるとしている。近藤氏との結論の違いは臨床試験の信頼性と結果の解釈の違いよると思われる。お互いに自分の主張に都合のよい試験結果だけを引き合いに出すとか、試験データを恣意的に解釈しているといった批判をしあっているが、この点でどちらが正しいかはわからない。ただ近藤氏ががん治療をする医師が患者より製薬会社の利益を優先しているとか、効果が完全に立証されない以上有効ではないと言い切るので議論の焦点が定まらなくなっている気がする。私個人は医師には必ずしも良い思いを持っているわけではないが、立派な医師も数多くいる事を知っているし、試験結果の分析や解釈では有効性が微妙なレベルでの差であっても意味ある場合があると思うし、それに注目することが次の段階への道になることがあると考えている。

 週刊文春のこの反論記事では抗がん剤投与により命を縮めることがあるのも認めている。その主張は寿命を縮めたケースの多くは薬を投与する医師に十分な専門知識がなく、投与する薬の量、効果が上がらない場合の中止の決定などで不適切な処置がなされたためだとのことだ。

 こうした主張のどちらが正しいのかわたしには判断できるわけもないが、近藤氏の主張が多くの人に支持される事実は大きいと思う。その理由としては、がん治療そのものがまだ確立していないうえに、治療には大きな身体的苦痛と経済的負担がかかることがあるだろう。しかしそれと同時に感じるのは患者(そして患者予備軍としての一般人)にある医師へのある種の不信である。ある種と言うのは全般的には医師への信頼はあるものの、本当に医師が患者としての自分を人間として見て、最善の治療(何もしないことを含めた)をしてくれるのかといった不安からくるものだという意味である。次回では何故患者はそう感じるのかについて、医師の側にどんな問題があるのか述べたいと思う。そして可能ならばもう少し大きな問題、死や寿命に対し医療が出来ることは何かを論じたい。