’法に触れなければ良いのか’

 検察は小沢一郎を再度不起訴とした。前回の聴取の際と状況は変わっていないので、予想された結果ではある。小沢氏はこれについて’私の関与や疑惑がないことを明確にしていただいた’とのコメントを出した。前回の不起訴以降強気の姿勢を崩していなかったから、ますます自信を持って民主党を、そして政界を牛耳ろうとするだろう。また小沢側近の政治家たちもこれで'無実が証明された'として野党やマスコミの攻撃を乗り切ろうとするだろう。しかし本当にそれで良いのだろうか? 不起訴になったことで'やましいことがない'ことが証明されたのだろうか? 不起訴が意味するのは'小沢氏がやましいということが完全に証明できなかった'ということで、この問題の真実を示しているわけではない。にもかかわらず、これをもって小沢氏は自らを潔白だと結論付けようとしている。

 法の穴を探すとか、法の網をくぐるという言葉があるが、これはある行為を有罪とは立証出来ないが、常識的には大いに疑念があると言った場合に使われる。法の網をくぐって行われ、多額の利益を生み出すビジネスもあるが、まともな人間は法律に違反していないからと言ってこうしたビジネスで金を稼ごうとはしない。そうした商売に手を染めることは、ぼろい儲けと引き換えに大切なものを失うからである。それは人間としての信用であるし、自らの誇りでもある。

 ほとんどの大企業は'倫理規定'や'社員行動憲章'といったものを持ち、それに準拠してビジネスを行うこととしている。これらの内容は大体似たもので、その根本は'会社が法を遵守するのは当然で、法に触れなくても社会的に疑問を持たれる行動をとってまで利益を求めることはしない'という考え方である。企業の不祥事が続いたため、社会が企業活動を見る眼が厳しくなったということもあるが、法律そのものが必ずしも完全なものではなく、しばしば利害関係者の圧力で法令運用上は実効性の乏しいものになることがその根底にある。法律に違反していなければ良いというのはビジネスの世界では受け入れられなくなっているのである。(もちろん今でも、一部の経営者は法に触れなければ構わないとして、利益優先の行動を社員に要求する。しかしこうした企業は何かで社会の信用を失ったときに致命的なダメージを被るのである)

 しかしながら政治の世界では相変わらず一時代前の感覚で'疑惑がないことが証明された'として、問題を片付けようとしている。国民のほとんどが釈然としない気持ちを持っているのは、不起訴になったからと言って小沢一郎氏の行動が疑惑のないものだとは考えていないからであって、真実が明らかにならないままに問題の幕を聴こうとしていることに疑問を持っているのだ。

 4億円の出どころや処理の方法に関し、何故何度も異なる説明を繰り返したのか、資金を提供したという建設会社の幹部は何のメリットがあってそうした証言をしたのか、小沢氏の選挙区の公共工事にかかわる業者選定には小沢事務所の意向を無視出来ないと言われるのは何故か、解明されていない疑問はあまりに多い。民主党が政権を握り旧来の利権構造はなくなると思っていたが、党内で小沢氏を批判する声がほとんど出ないという点で、自民党の時代より悪くなっていると言っても良い。また最高責任者たる総理大臣も不明朗な資金管理を行い、小沢氏を擁護する体たらくである。

 私たちは期待を持って民主党を選んだのだから、民主党がその期待に反した行動を続けるならば、そしてそれがあまりにひどいものならば責任を持って彼らを葬ることをしなくてはならない。民主党を選んだのだから責任を持って彼らを支えようという意見があるが、これはまったく無責任で自分の投票行動を正当化することにとらわれているだけだ。ぐずぐずしているうちにこの国はますます劣化してゆく。

国の最高の権力者が不起訴になったと言うことだけで疑惑に蓋をすることを許すなら、企業や一般の人たちが上手く法をかいくぐって、不当な利益を得ようとか人を落としいれようとかしても非難することもできない。悪知恵のある人間、非倫理的な行動をいとわない人間が有利に生きてゆける社会とは何なのだろう。今回の小沢そして鳩山の問題は、この国が一層品格のない国へ進むか否かのところで起こっている。その対処を誤ると取り返しのつかないことになると思う。民主党に代わる政党がないという問題は認めるが、それでも今後の選挙で民主党に一票を投じることほど愚かな行為はないと言っておきたい。