トヨタ社長公聴会出席

トヨタ自動車がアクセルペダルの不具合による大量リコール問題への対応に関して、米議会の公聴会に出席して説明を求められた。アメリカ国内での疑問はアクセルペダルやフロアマットという点ではなく、トヨタ車の電子制御装置の不具合にあるのではという点に移っているようだ。事故や故障の実際の原因は分からないが、この一連の事件で気になった点を書いてみたい。


何故この件がこれほどの騒動になったのかはトヨタ自動車の対応の拙さによると思うが、日本では米国政府の陰謀説が根強くあるとCNNは報じている。アメリカの自動車会社の凋落と米国政府がGMの主要株主である事実がその噂を真実性を高めているようだと書いている。一方で11月の中間選挙を控えた米国議員達の思惑も無縁ではないだろう。政治家はどこの国でも同様の発想をし、同様の行動をするようだ。

豊田章男社長は公聴会を無難に乗り切ったと思えるし、その後に行ったラリー・キングのインタビューでもかなり率直に気持ちを述べておりそれなりの共感は得られたように感じた。
それよりも私の関心は米国議員達の追及で、彼等にトヨタのモノづくりや品質管理に対して非難されたくないというのが正直な感想だ。地道なモノづくりを捨て金融立国への道を歩み世界を混乱させている国の議員達に品質管理について文句言う資格などあるのかという気さえする。それを言うならもっと自国の製造業を大事にし長い眼で育て、強欲な金融関係の企業を厳しく取り締まってくれと言いたい。それをしないでトヨタを高圧的に批判するから陰謀説も出てしまうのだ。


そうはいいつつも一方ではトヨタへの批判も分からなくはないというか、いつかこうした事態が起こるのではないかと漠然と感じていた。それはトヨタ自動車の持つ体質である。トヨタの社員が持つ尊大さは上から下まで共通していることを考えると会社が社員にそうした態度を植え付けているのだろうと思う。私のように納入業者ではないものが感じるのだから、子会社や納入業者に対する態度は想像を絶するものだろう。もちろんトヨタにも普通の態度を持つまともな社員も多いが、こうした体質がカンバン方式や品質管理を支えてきたのは事実だろう。そのやり方がトヨタの強みとして世間の評判を得るのだから、トヨタの社員が自らの振る舞いが尊大だと感じることもないのだろう。しかしそうした体質が、今回アメリカでトヨタ車のトラブルに見舞われたユーザーの声を真摯に取り上げなかったことの原因になっていることに気づくべきではないか。


豊田章男社長は今回の事件を生まれ変わるチャンスだと述べ、その言葉に嘘偽りはないと思うが、社長は自社の社員の態度がどう思われているかは知らないはずだ。誰もそんなことは社長には言わないからだ。社長が真摯にトヨタを変えようと思ってもトヨタの社員に染みついた尊大さをそのままにしては上手くいかないだろう。
プリウスのブレーキの効き方について「運転する人のフィーリングの問題」と言い放った幹部など典型的な例である。もしプリウスのブレーキ効き方がが従来のトヨタ車とフィーリング的に違うなら、その旨をユーザーに伝え、パンフレットに明記して注意を促すべきだろう。それもせずに事故が起こってからの記者会見でフィーリングの問題だという神経は、社会通念とはかけ離れているし、高度な車は作れても人としての基本的な考え方を理解していない人間が幹部になっていることを明らかにしてしまった。

日本の大企業は米国に比べ一体感や愛社精神があり、それが強さの源になっていると感じるが、一方で巨大な製造業は傲慢不遜だし、大銀行は慇懃無礼だという印象だ。
トヨタが米国で成功して世界一の自動車メーカーになれたのは、もちろん自らの努力と車の品質によるが、アメリカの国民が安くて良いものはブランドにとらわれず評価し使用するというフェアな態度を持っている点にも助けられている。世界一になったからと言って日本で取るような尊大な態度をアメリカ国民にとったら、無名のメーカーの頃にトヨタを選んでくれたアメリカ国民に対する裏切りであり、彼らのサポートをを本当に失くしてしまうだろう。トヨタに対して厳しいことを書いたが私もレクサスユーザーでトヨタを世界一のメーカーだと考えている一人である。是非この機会に謙虚で理想の高い社員の集まる会社にしてほしい。


最後にトヨタ社長が公聴会に出る前に鳩山首相が言ったコメントに触れておこう。首相は「真摯に誠実に公聴会で対応されるべきだし、そのことを期待している。そうすれば、大きな日米の経済問題に発展することなく、トヨタに対する信頼が徐々に回復する可能性が十分ある」と述べたそうだ。全く懲りない人で、トヨタにこう言う前に普天間の問題などで自分自身に、そして閣僚たちにこのことを言うべきなのだ。そうすれば大きな日米の問題にならずに済む可能性はあるのだ。一国の首相にここまで書くと本当に情けなくなり、すっかり疲れてしまう。