コンプライアンスの徹底を今こそ

昨年8月に日本でコーポレートガバナンス論議がさっぱりされなくなったと書いた。1980年代には日本経済の強さの源と言われた日本的経営の特性が経済の長期低迷と共に弱さの原因とされ、その対極にあった米国の経営方式、株主主体のコーポレートガバナンスが理想であるというのが1990年代から2007年頃までの主流の議論であった。多くの経済学者やエコノミストは日本企業が旧来の慣行に縛られ米国型の株主重視の経営を実行しないのが経済低迷の原因と主張してきた。しかし2008年のサブプライムローン問題で米国の金融機関が破綻した後は、お手本が駄目になったことからこの問題を避けるようになった。


NYの金融機関の経営者は株主と一体になって短期利益を追い求めて怪しげな商品を販売し続けた結果破綻し、世界経済を混乱に陥れた。NYで長く投資銀行を経営してきた神谷(みたに)秀樹氏はNYの金融機関で働くファンドマネージャー達を'社会に対してどのような貢献をしたとか、倫理観が高いとかお金以外の要素は評価されないため、法律で許される範囲であらゆることをしてキャピタルゲインをあげようとする'と書いている。


同じ時期から日本でコンプライアンスの議論もされなくなったことは上記の問題と無縁ではない。神谷氏が言うようにNYの金融機関の経営者は(社員も含め)法律違反をしていたわけではない。コンプライアンスの定義にもよるが、これを法令遵守とすればコンプライス上の問題はなかったと言える。彼等は法律ぎりぎりのところで、経済的弱者を食い物にする仕組みを作り上げ、それを格付け機関と結託して、まともな商品として世界中で売りまくったのだ。

法律には違反しなくとも非倫理的ビジネスを推し進めた結果自らの会社だけでなく世界経済を破綻させたのである。良識的バンカーが、将来性のある技術を持つが資金力が弱い小企業を長期的な観点から支援、育成するという行為はあまり評価されず、短期で巨額の利益を上げるファンドマネージャーが大切にされ昇進した結果、NYの金融機関のトップはPCで金を稼ぐのが得意な連中ばかりになったと神谷氏は述べている。


こうした状況ではコンプライアンスの議論はいかにも間が抜けている感じがするのだろう。世界経済を混乱させた連中は法律を順守していたのだから、問題はコンプライアンスよりももっと大きい所にあって、その点を正さないで社員にコンプライアンスを言っても迫力も効果もないように思えてしまう。コンプライアンスコーポレートガバナンスの関係をどう位置付けるかについては未だ明確ではないようだ。金融機関の経営者(その従業員も)はローンの返済が難しいような人達に住宅を売りつけ、その結果生じるハイリスクのローンをローリスクのローンと組み合わせて安全性が高い商品として販売することで巨額の利益をあげ株主を喜ばせた。その見返りとして数十億円と言われる報酬を得ていたが、彼等は法律こそ犯していないが道義的には大いに問題がある。一方で日本の政治家(またはその秘書)から公共工事での受注を条件に金を要求され、会社の利益のために渡した支店長が法を犯したという理由で罪に問われるのはやむをえないが同情の余地はある。この違いは明らかに不合理である。


簡単に企業倫理とか経営哲学の必要性と言ってしまうと議論がステレオタイプなものになってしまいそうだが、コーポレートガバナンスのあり方を議論し共通の定義を作る試みは必要なのではないか。会社が株主のものであることを否定するつもりはないが、その株主の本来あるべき姿を明確にし、短期保有キャピタルゲイン目的のファンドなどとは区別し、あるべき姿の株主の下で企業が倫理的に容認できる事業を中長期に安定して行うことの重要性を確保する仕組みを作るべきではないか。少なくともモノ作りの努力を捨て金融立国を目指す米国のコーポレートガバナンスに盲目的に従うべきではないだろう。


そうはいっても昔の日本的経営に戻れというわけではないし、実際もう戻れないところまで来ている。ほとんどの大企業は新会社法の要請で内部統制の仕組みを取り入れ、多くの経営者はその適確な運用を呼びかけている。従業員と会社の関係も安定的な雇用が保障されていた時代とは変わっているし、取引先との関係もビジネスライクになっている。またグローバル化の下で多くの企業は海外と何らかの取引を持つようになった結果、情報公開や透明性の高いビジネスの進め方に注意を払うようになった。コンプライアンスに関しては人の意識と共に制度的な整備が大きく進んできたのである。 こうした変化を後に戻すことは出来ない。


従ってコーポレートガバナンスのあり方へのコンセンサスが出来ていないからと言ってコンプライアンス活動をスローダウンして良いものではない。経営者はコンプライアンスには継続的に金と時間をかけて不祥事の減少に務めるべきである。コンプライアンスの基礎になる内部統制の仕組みが出来上がったとしても、日本企業が持つ不祥事のリスクが減少するかは分からない。内部統制活動により従業員が悪意を持って会社の資産や金を詐取するような犯罪のリスクは減ってくるだろう。しかし日本の社会的、文化的なものの基本的な部分が変わらないとすると、政治と金の問題や、談合に関する不祥事は簡単にはなくならない。最近の景気低迷下での利益確保のプレッシャーの中で経営陣がどこまでコンプライアンスを徹底できるか、以前に増して不安な要素がある。


さらに最近の雇用情勢は、労働法への意識の薄い雇用主の横暴を助長するものだ。派遣労働者に対する仕打ちだけではなく、正規従業員に対しても、雇用継続と引き換えの労働強化(サービス残業や休日出勤)が行われているのではないか。法律の網の目をくぐって利益を上げようとする米国の金融業を手本にするのではなく、事業と社員を健全に育成してゆくという日本企業が持つ伝統に立ち戻り、コンプライアンスの徹底を図るべきではないか。経済学者、エコノミスト、経営評論家の先生方は結果を見て論評をすることや、抽象的な正論を振り回して今そこにある問題の解決に貢献しないような議論をやめ、コンプライアンスの必要性を本気で経営者に説いてもらいたいと思う。