エリートの遇し方; 官僚叩きと待遇低下への疑問(2)

前回、キャリア官僚という生き方が魅力がなくなっていることを書いた。その一因は国家のエリートに相応しくない行動をとってきた官僚自身にあることは否定できない。しかし最近の官僚叩きは、その職業そのものの価値を軽視しているようにも思える。日本におけるエリートに対する屈折した感情がその底流にあるようにさえ感じる。

学生にとって就職は一生を左右する大きな決断である。以前に比べ若いうちの転職への抵抗や否定的見方は少なくなってきたが、多くの学生にとって良い職業について長く勤めるというのが依然望ましい選択である。
とりわけ行政/経/法のキャリア官僚の試験に通るような極めて優秀な学生にとっては、超一流会社に入社することもまったく困難なことではないだろう。彼等が民間よりも官界に行こうと考える理由には国の為に尽くそうという意欲、そしてそうした努力を続けた結果、経済的にも恵まれプライドも満足できる人生を歩めるという見通しがあるからだと思うが、それは決しておかしいことではない。優秀な学生が自分の人生を考える上で当然のことだと思う。


前回と繰り返しになるが、人事の基本は優秀な人材を獲得し、保持し、育成することである。これなくしていかなる組織も生き残ることはできない。国家も大きな組織である。今私が問題視しているのは、現在行われているのはそうした国家エリート育成の道を深い思慮なく変更し、官庁に優秀な人材が集まらない、保持できないという状況を作ろうとしているように感じるからである。

不心得な官僚の不正な行為、国民よりも企業に肩入れする官僚の存在、同期の一人が事務次官になると他の同期のキャリアは引退し天下りを繰り返す実態、その天下り先を確保するために税金で行う不必要で非効率な事業等、官僚をめぐる問題は限りなくあるが、だからと言って感情的にキャリア官僚を政治家の下働きにし、経済的なメリットを剥奪すればすむものではない。そうした官僚の不祥事の裏には政治家がいて、また大小の企業が群がっているのである。物覚えの悪い政治家のための国会答弁書作成のために徹夜を続け、給与は彼等が望めば入れた企業よりはるかに低い状態で20年以上も働くのは、使命感とともに退職後のインセンティブがあるからだろう。

もし変えるとするならば、単に天下り禁止というのではなく、若い時から、銀行、保険会社、総合商社、メーカー等のトップ企業とそん色のない待遇を与えるべきだろう。主要官庁のキャリアなら都内の一等地にある官舎をもっと改造してエリートに相応しい住まいにして安く提供しても良い。都内の一等地はITの波に乗った若社長や芸能人だけが住む所ではない。そうすれば退職までにそれなりの蓄えもできるし、また過去の経験を生かせば自らの力で次の働き先を民間で見つけることができるはずだ。天下り先を無理に作る必要もなくなる。

とはいっても給与の仕組みを変えればよいというものではない。評価制度、昇進システム、人員配置等ほとんど全ての人事制度を変えて、少なくともキャリアに関しては民間のような競争原理を導入し、35歳くらいで入省年次を超えた配置がされるようにすべきだ。同期の誰かが事務次官になるまではなどといった、大昔のエリートたちのプライドを維持する仕組みはもういらない。

さらに競争原理の導入により、5年ごとに官僚の業績、適性を評価し、キャリアに相応しくないなら民間への移行を進めるべきである。キャリア官僚の道を歩めないとしてもそれは能力より適性の問題で、民間の企業や研究機関のほうが力を発揮出来ると考えるべきである。もし官庁に空きができたら民間から人を募ればよい。こうして人材の流動性を高めることが国家として、社会として人をより有効に利用できる方法と思う。

こうすれば学歴だけが立派で、一度の試験に通っただけで、大した仕事もしないで、一生えばって、楽して天下りを続ける官僚は大幅に減るはずだ。一方でノンキャリアで入った人でも、専門分野で深い知識と高い業績をあげた人はエリートコースに乗せるべきだ。公務員2種で入省しても、その後の努力で1種の人を抜くことは十分に考えられる。ごく一部の秀才を除けば、1度の試験だけでたまたま1種に合格したり不合格で2種に甘んじている人も多く、実力的には差がないケースも多いと思う。

しかし魔女狩りのような現在の官僚叩きはどこから来るのだろうか? 一つにはこの国が同質的で嫉妬の社会だからだろう。多くの人は秀才が努力を重ねてエリートの道を行くことに反感を持つようだ。自分たちと同じような出自で、同じように育った人が、勉学の才能に恵まれ、努力を重ねて上にあがってゆくことが気に入らない。学歴なり、努力の差による結果の差は認めても、それはささやかなものでなくてはならないようだ。

一方で学歴もなく、才能と努力で成功した人は人気がある。松下幸之助本田宗一郎田中角栄などがそうだ。しかしこうした人たちはそれこそ特殊な例外で10年に一人とか二人とかいう人たちである。また何代も政治家や、実業家の家系の人達についても比較的寛容な気がする。それよりも彼らに近づいて何かを得ようとする人のほうが多いと思う。だから彼等が庶民から離れてどんなに豊かな暮らしをしていてもあまり気にしないようだ。

しかし今議論しているのは国家の基礎となって働くエリートたちの予備軍である。彼らの多くは法外な財産があるわけでもないし、名声があるわけでもない。中には恵まれた官僚もいるがその人達は比較的早く退職をして政治家になる人が多い。我々と同じような庶民から出たエリートおよびその予備軍をどう遇するのかを真剣に考えるべきだ。私は上述したようにエリートに相応しい待遇を与え、同時に高い倫理観と行動規範を要求し、期間ごとに身分を見直すべきだと思う。感情的な官僚叩きをして庶民の感情をあおっている大手マスコミの社員や記者がわが国で最高レベルの給与を得ている現実を考えると、官僚への反発はマスコミ記者たちのコンプレックスの裏返しなのかとも考えてしまう。

言うまでもなく日本は曲がり角にきている。だから自民党も大敗した。だからといって民社党は大衆受けを狙った官僚たたきをするべきではない。民社党議員のどれだけが官僚より知識、経験、教養があるのだろうか。昔も今も、この国の財産は人である。社会を支える人達を大事にすることはもちろんだが、社会の将来の青写真を描ける人も大事に育てなくてはならない。すぐれた船長や将校のいない船は座礁するリスクが高い。