ミステリー小説のヒーロー達

 こんなタイトルを付けると、いかにもわたしがミステリー通のように思われそうだが、決してそうではない。小説好きの人なら当然読んでいるようなミステリー作品も、多分半分も読んでいない位のレベルだと思う。では何故こんなことについて書くのかと言うと、今読んでいる最中のミステリーがとても面白く、その理由を考えているうちに、私が好きなミステリーのタイプ、さらに言えば好きなヒーローの特徴に共通点があるように感じたからだ。もちろん私が好きなヒーローのタイプは昔から変わらないのだが、その特性を真面目に考えることもなかったのが、今読んでいる本に触発されて考えてみたというわけだ。

 その本とは、リー・チャイルド(Lee Child)の’The Affair'というミステリーである。米国に行った時に、安いのでペーパーバックの本を買うのだが、これもその一つで、7月末に授業が一段落したので読み始め、主に通勤時の楽しみにして、590ページの長編を320ページほど読んだ。 ジャック・リーチャー(Jack Reacher)という陸軍少佐が、上司の命令でミシシッピーの田舎町で起こった殺人事件の真相を探る話である。 まだ半分少し読んだだけなので事件の真相は分からないが、予想もしない展開のストーリーが面白い。そして何より主人公のリーチャーが魅力的なのだ。思慮深く、大胆で、喧嘩が強く、権力(上司)におもねることはないが、女には持てる。スーパーヒーローだが、人間的で憎めない。

 作者のリー・チャイルドも主人公のジャック・リーチャーも有名人で、ミステリーファンのみならず、ちょっとした本好きなら当然知っている人達なのだが、わたしは何も知らず本屋で立ち読みをして買ったのだった。読み始めてから色々と調べると、ジャック・リーチャーシリーズは人気ミステリーシリーズで講談社から4冊の翻訳本が出ているそうである。私が買ったのはその最新版でシリーズ17冊目にあたるようだ。ジャック・リーチャーを陸軍少佐と書いたが、ほとんどのシリーズでは彼は元陸軍少佐と言う設定だそうで、私が読んでいるのはその点で通常のシリーズとは異なるようである。また'One Shot'という作品は'アウトロー'というタイトルで映画化されたそうで、日本では来年の2月に公開とのことだ。ジャック・リーチャーを演じるのはトム・クルーズである。


 今読んでいる途中で私はこのシリーズにはまりそうな気がしている。次は翻訳本を読んでみて、それが終わったらまたペーパーバックで読もうかと思っているほどだ。熱心に一人の作家を追及することはあまりないのだが、それでも私も人並みに気に入った作家を続けて読むことはある。

 ミステリーで今までに良く読んだ作家と言えば、ディック・フランシスだ。多くの人が面白いと言っていたのは知っていたが、競馬小説というジャンルから、少しマニアックでおたくっぽいのではないかとの先入観を持ってしまい、長く読まずにいた。30歳半ばを過ぎたころにふと読んだら、これにはまってしまって一時は新刊が出るのを待って読むほどだった。競馬が舞台になってはいるが、それは単なる舞台で、そこで起こる様々な事件を解決するミステリーと冒険小説の中間のような話が多い。

 私にとってディック・フランシスの小説の魅力はその主人公だ。彼の小説は一部の例外を除いて、いつも主人公が異なり競馬関係者だけではなく、銀行員や会計士、ワイン商、絵かきと様々だ。例外とはシッド・ハレーという隻腕の元騎手で、この男が4作に登場する。(もう一人2作品に登場する主人公がいるが、シッド・ハレー程の印象はない)主人公は異なっていても、そのタイプには共通項が多い。知的で、勇敢で、正義感が強く、人間的だ。英国の話で競馬が舞台なので、階級社会の描写は自然に出てくる。これはネガティブな意味ではなく、主人公がそれなりの社会的地位や名誉を持っていても、それより上流に位置する人達がいるという現実を書いているのだが、小説の主人公はそうした地位の高い人達より、知性的で分析力があり、困難にひるまない勇気を持つことで、人間的魅力は階級とは別のものだということも示している。

 わたしは3冊ほどは原書で読んだが、馬に関する用語が多く苦労したので、翻訳で読むほうが早くてストーリーを楽しめる。そしてなんといっても菊池光さんの翻訳が素晴らしい。題名も「利腕」、「興奮」、「大穴」、「直線」等、39作の全ての翻訳本のタイトルが漢字ふた文字となっていて読者を引き付ける。この点では先のジャック・リーチャーシリーズの4つの翻訳の内、最初の翻訳を除いた3作の題名も、「反撃」、「警鐘」、「前夜」となっていて似ている。

 日本のミステリーではあの「新宿鮫」を全部読んだ。キャリア警察官ながら警察内部の組織的、政治的事情で新宿署の警部の身分に据え置かれ(本人が望んでいる部分もあるが)、徒手空拳で難事件に立ち向かう鮫島警部が主人公だ。彼も知性的で、勇敢で行動力があり、権力におもねらない。ハードボイルドだが、警察エリートの権力闘争や出世競争とは距離を置いた人間だけに見える、警察組織の真実やいやらしさが描かれていて、作品に厚みをあたえている。鮫島警部はもちろん魅力的だが、エリートなのにはぐれていて、タフでハンサムで、孤独だが愛する人がいるという設定は、わたしにはヒーローとして出来すぎているような気がする。このシリーズはミステリー小説としての面白さは十分だが、ヒーローとしてはもう少しひねってある方が私好みだ。 

 その点では今野敏の「隠蔽捜査」シリーズは中々渋い。東大法学部卒のキャリア警察官(階級は警視正)、竜崎伸也が主人公である。竜崎は40代後半の見栄えのしない中年男で、オシャレにも無縁だ。しかし強烈なエリート意識にあふれた警察官僚で、自らのキャリアと仕事にプライドを持っている。こう書くと鼻もちならない男を想像するかもしれないが、彼のエリート意識はいわゆる'ノーブレス・オブリージ'(noblesse oblige)に近いもので、 権力欲や出世欲にとりつかれた多くの官僚とは違っている。竜崎が出世を望むとすれば、官僚としてより大きな責任を背負うことでより社会に貢献出来るからで、自らの個人的欲望のためではない。彼は仕事を進める上での政治的な駆け引きや配慮には無頓着で、原則を重んじ真実を求めることを最優先するので、周りからは変わりものと言われ、降格人事も味わう。それでも官僚のあるべき姿に関する信念を変えず、その信念に基づいて行動するので、心ある人達からは信頼をされている。鮫島警部のように颯爽とした行動力を示すわけではないが、巨大で複雑な組織において明晰な頭脳を駆使し愚直に行動して、事件を解決する竜崎伸也はまぎれもないヒーローだ。

 今野敏と言う人はこのように捻った主人公を作るのが上手いようで、樋口顕という一介の警察官が主人公のシリーズでは、腕力捜査を好む典型的な刑事達の中で、少し離れて客観的にものを見つめる刑事がいつの間にか事件解決の主要的な役割を果たして周りをうならせるという設定を見せている。面白いのはこの主人公は自分が所謂刑事達と違っていることにコンプレックスのようなものを感じ、自分のやり方に自信を持てないのだが、そのやり方が効果を上げ、周りから感心されることに一層困惑してしまうところだ。少しひねりすぎかもしれないが、私にはとても面白いと思える。

 こうして私にとってのミステリー小説のヒーローを上げてみると、そこにはまぎれもない共通項がある。明晰な頭脳と冷静な分析力、困難に負けない闘志と勇気、タフな肉体と行動力、権力におもねらず真実を求める姿勢等々だ。これらをすべて持っていたらスーパーマンのようなものだから、魅力的なのは当たり前かもしれない。その中で必要不可欠なのは、真実を求める強い気持ちとへこたれない芯の強さだろう。思えばこうしたヒーローの姿は、私が人生でそうありたいと願っていたものである。組織の中で生きてゆくのは、現実と自分の考えとのギャップとどう折り合いをつけるかの連続だ。出世は究極の目標ではなくても、より大きな仕事をするために、また良い待遇を得るためには必要で、それは妥協とある種の服従なくしては得られない。しかし私の好きなヒーロー達は、そうした妥協や服従を最小限にして生きてゆける能力を持っている。わたしは自分もそのように生きたいと思いつつ、ヒーロー達も活躍に胸躍らせていたのだろう。