ITの進歩をほうっておいて良いのか

 大きな変化が起こるとそれに対応できない人達が生じる。変化に適切に対応できた人は、それに伴うメリットを享受できるが、上手く対応できない人はメリットを受けられないだけではなく不利な状況に置かれる。この20−30年の変化の中で最も大きなものはITの進歩だろう。インターネットの時代に適切に対応できる人たちは、それがもたらすプラスとマイナスを理解しコントロールして利便性を手にする。しかしそうでない人たち、過剰に対応してのめりこむ人たちは精神的、肉体的なダメージを被るし、対応したが不十分な知識からリスクに無防備な人たちは、トラブルに巻き込まれる恐れが増えている。そしてまるで対応できない人たちは社会から取り残され、インターネットのメリットを享受できないばかりか就労の機会さえ失いかねない。

 一方でインターネットの急速な進展は使い手に便利さと同時に厄介な追加作業を要求している。それはITに比較的うまく対応している人たちにとっても面倒な事態になっている。ITに無縁な人たちにはそうした面倒な追加仕事はないという利点はあるが、一方でこの面倒な作業を行っているIT利用者との距離は広がるばかりで、無縁な人たちのIT活用の可能性はますます低くなっている。

 厄介な追加作業とはパスワードの管理でわたしはこれに少なくないストレスを感じている。銀行のキャッシュカードやクレジットカードのパスワードから始まり様々なインターネット・サイトへのアクセス用パスワードまで実に多くのユーザーIDとパスワードを管理しなくてはならない。銀行送金、株取引、買い物(主に洋服、ゴルフ用品、本、CD)など生活で必要なことの多くをインターネットに頼っている。わたしは年に一度ユーザーIDとパスワードの組み合わせを整理して見直すことにしている。すべてのIDに固有のパスワードを持っているわけではないので(全部固有のものにすると100以上のパスワードが必要だ)、年に一度くらい総点検しないと訳が分からなくなってしまう。リスクの高い取引に関するパスワードは大体1−2か月に一度くらいは変えるようにしているのだが、そうでないものは半年くらいは変えない。必要な情報をエクセルに入れておくのだが、この情報そのもの、例えばパスワードなどをそのまま書いておくと危険なのである部分を暗号化しておく。印刷したものをバイブルサイズのシステムノートに入れているので、万一このノートを落とした時にも簡単に知られないためだ。

 暗号化はリスクを減らすが、パスワードを忘れた時など別のトラブルともたらす。ノートを参照しても暗号が分からなくなってしまうことがあるからだ。色々試してようやく正解に達することもあるくらいだ。もちろん変更したパスワードをノートに書き忘れるというミスもある。こうなると売りたい株が売れなかったり、買いたいものも買えなくなってしまう。また変更のたびにノートに書き加えていると数字やアルファベットがページにあふれて汚いこと夥しい。だから年に一度エクセルの表をアップデートして印刷する。こうやってやっとインターネットでの取引や検索を正常にできる状態を維持している。

 多くの人から見るとそれは神経質すぎると見えるかもしれない。わたしがこうしたパスワードの管理をするのは会社勤めをしていた時に身に付いたものだ。一般に米国企業はITへの取り組みが積極的でオフィス業務の効率化では日本企業と大きな差があった。わたしが働いたエクソンの子会社でも1990年頃には原則一人一台のPC(といっても今のパソコンとは違うIBM55550とかいう高価な代物だった)が用意された。現業職などをのぞいて1500台くらいあったが今では想像できないくらいの大きな投資だった。だから台数の管理もうるさかったし、またセキュリティも非常に徹底していた。当初は外部のネットワークへの接続は禁止されていて、それを行うには特別な承認を得なければならなかった。パスワードは月に一度変更をしなくてはならなかったし、それを忘れると上司の承認をもらい仮パスワードを受け取る。だからたびたび変更を忘れたりすると評価に影響する。そんな環境にいると当時の日本企業のコンピュータセキュリティの管理は、ゆるゆるでまるで危機感のないものだった。一般の企業ではなく日本を代表する電機メーカーでも同じで、システム開発のプロジェクトを共同でやるたびにその意識の違いに驚いた。

 もちろん今は日本企業もコンピュータセキュリティへの関心は高まっているだろう。しかし一般ユーザーの多くは相変わらず意識が低く、ITに詳しい犯罪者に狙われている。最低わたしくらいパスワードの管理に注意すればいろんなリスクは減るのだが、そんなにまでして管理するのは面倒でできないと考えている。しかしITを使った犯罪者たちはより巧妙かつ高度な方法での詐欺的行為を考え出すだろうから、ユーザーに求められる追加作業は一層煩雑になるとおもわれる。そうなると退職者でインターネットを利用している人の多くはますます対応できなくなってくるだろう。パスワードの管理に注意しているわたしでも今既にストレスを感じているのだから、これ以上をややこしくなったら敵わないというのが実感だ。細心の注意を払ってインターネットを利用してゆくとしても、ITの一層の進歩は普通の人間が簡単に対応できるレベルを超えたものを要求してくる気がする。

 話は変わるが人工知能の進歩も大きな可能性と同時に深い恐怖を感じさせる。SF映画ではないが人間が人工知能を制御できなくなる時が必ず来ると感じる。どんな制御プログラムを入れておいても人工知能はそれを解除してしまうのではと思うし、犯罪者がそれを行う可能性もある。今の感じではそんなことが起こるのは遠い未来ではないような気がする。

 いま世界に起こっている変化、トランプ大統領の出現や欧州での右翼勢力の台頭に見られる保護主義民族主義は、グローバル化の中で経済的弱者になっている人たちが支持していると言われるが、同時にそんな人たちはIT弱者でもあるように感じる。どんどん進歩するテクノロジーについていけない人たちの焦りと恐れが、単純で乱暴な現状変更を主張する政治家を支持する力になったとは言えないだろうか。トランプ氏が本当に弱者を救おうと思ているかどうかは疑問だが、弱者になりつつある人たちの怒りや不安は本当なのだと思う。サブプライムショックの時も感じたが、知識や情報で優位に立つ人間が、商品の内容をよく理解できない弱者に付け込んで金儲けをする構図はITにおいても同じだ。G20などでは世界の金融システムの維持が話し合われるが、同様に世界のリーダーたちはITの進歩に対するコントロールを定期的に話し合う場を設けるべきだと思う。一般のユーザーが犯罪者の餌食にならないように企業(ネットワーク関連に加えてサイトを提供している企業)にユーザー保護の対策を取らせることを国を超えて徹底することを決める必要がある。

 尤もITについて最も疎いのは多くの政治家なのかもしれない。政治家たちは自分たちが損をしないような法律を作るから、またインターネットとは深くかかわらなくてもやっていけるから、ITの変化についていけなくても損をしない稀有な人たちなのだ。そう考えるとITの進歩の中で損をしたり取り残されて不利になる人たちへの対策がタイムリーにとられないのが分かる気がする。しかしそうした人たちの不満が選挙結果を左右し始めているのだ。ITの進歩は一般個人で対応できる範囲を超えつつある。各国が連携して対策を取ってほしい。