事務所の引っ越しと周辺地区の風景(1)

 関内駅近くにある事務所を閉鎖することにした。会社自体は残すので正しくは自宅に移転することになる。入ったのが平成20年9月だからもう6年いたことになる。いわゆるビジネスセンターにある5畳ほどの一室で、応接室と会議室は共用で30分単位で借りて使う。関内周辺を色々見てから決めたところで、狭いが駅に近いのと窓から横浜スタジアムがすぐそばに見えるのが気に入っていた。

 元々本気で仕事をする気もなかったが、58歳で会社を辞めて家にいるのも不健康なので、どこか行き先をという理由で借りたものだ。だから毎月家賃を払うのはもったいないのだが、それでも行く所があるというのは悪くないもので週に3日位はここに来ていた。はじめのうちはコンサル的な仕事もやっていたが面倒になって断っているうちに、残るのは大学での8回の授業とたまに来るスポット的な講義になっていたので、事務所での仕事は講義の資料作りの他は持っている不動産の管理だけで、まあ遊んでいると言われればその通りのようなものだった。家で使っていた180センチのソファを置いていたので寝不足の時などよく昼寝をした。事務所で寝るのも中々良いもので、いつも起きるとここはどこだろうと思ったりした。

 ここに事務所を持ってから当然だが関内や伊勢佐木町辺りに詳しくなった。わたしは横浜生まれで横浜育ちだが、家が金沢区だし小中高も関東学院六浦と言う横浜のはずれだったので通学も関内辺りとは無縁で、この辺りをよく知る機会がなかったのだ。だからぶらぶらしてみるとそうだったのかと思うことが沢山あった。最初の頃はあまり活気がないなあ、田舎だなあと印象が強かった。今でもそれは変わらないがこれはこれでいいのかもという気持ちが出てきている。もっともそれは諦めの一つの形で、東京のようにはなれないのなら今持っている良さを大事にした方が良いと言った気持だ。

 周辺地区は大きく言って関内の官庁ビジネス地区と伊勢佐木町の商店街に分けられる。地理的には根岸線(京浜東北線)の関内駅の東と西と言う感じだ。特に昔の伊勢佐木町の繁栄を知っていると今の状況が寂しく感じられる。わたしが小学生の頃には、伊勢佐木町は横浜一の繁華街で買い物に連れてきてもらうのが楽しみだった。野澤屋と松屋の二件のデパートがあり、有隣堂の本店、不二家のパーラーなどは子供には絶対的な魅力を持った場所だった。

 わたしが小学校を終える頃、1962―3年だが、その頃から横浜駅西口が発展し始めたと思う。横浜高島屋が出来ると野澤屋と松屋は規模も小さくあか抜けないデパートになってしまった。一度流れが変わると小手先の対応では何ともし難く、野澤屋は松坂屋に変わったが客が戻ることはなかった。わたしが事務所を持ってすぐに横浜松坂屋は幕を閉じたが、それで街の雰囲気は一気にチープになった気がする。その意味でもデパートの存在が町に与える影響が大きいことがよく分かる。
 
 ちなみに松坂屋の閉店セールでは色々なものが安売りしていた。フランスワイン赤白の二本セットが通常は一万円と五千円が半額になっていて、事務所を持ったばかりのわたしはそれぞれ一箱を買い、やはり半額になっていたセーターとカーディガンも手にしてふうふう言って事務所に運んだことを覚えている。このワイン特に一万円の物は大変おいしくて、後で車で行って大量に買っておくんだったと悔やんだ。デパートの建物はクラッシックな様式で今でも残っているが、やはり昔の輝きはない。

 現在の伊勢佐木町には有隣堂不二家が残っている。しかし町は下町の商店街の趣で、普段着のおじさん、おばさんが大半だ。そこに新しく出てきたのは、ユニクロ、ダイショー、パチンコ屋などだ。また中国、韓国系の人たち(女性が多い)と水商売風の若い女性が目につく。伊勢佐木町から日ノ出町にかけて風俗関係の店が多数あるからかもしれない。だから前述した活気がないなあというのは正確な表現ではなくて、活気はあるが下町商店街としてであり、ちょっと良いものを買いに行く街としてではないというのが本当のところだ。正直言ってこの町が昔のようなレベルの商店街、繁華街に戻れるかと言うと中々厳しいと思う。だからといって今のままだと発展性がない。何かに特化した街づくりにチャレンジしても良いのではと思うのだが、と言ってもわたしには美術の町、マイナーファッションの町、おしゃれ家具の町くらいしか思い浮かばない。実行力とアイデアのある若い人にまかせてやってみて欲しいと思う。なんてったって'ゆず'はここから出てメジャーになったのだから。

 次回は線路を越えた関内地区について書きます。