事務所の引越しと周辺の風景(2)

 今日は片付けの業者がやってきて事務所の荷物を引き取っていった。PCデスクや書類キャビネットなどまだ十分に使えると思うが、業者がどう処分するのかは分からない。彼らは引取り処分費用をとっているので、引き取ったものがもし売れればプラスの収入になるわけだから、それなりの努力はするのだろう。

 6年間使った事務所なので、荷物が何もなくなりがらんとするとさみしい感じがする。会社勤めの頃は転勤もあったし、同じ勤務地でもそこでの異動があったので、全く同じ場所というか部屋に6年もいた記憶にない。43歳から58歳までは東京の本社勤務だった。43から50歳までが赤坂のTBS会館だがそこでは二つの部署で働き、50歳から53歳までは竹芝のニューピア竹芝サウス、それから最後までは品川のWビルだった。赤坂は旧エッソ石油の本社、竹芝は旧ゼネラル石油の本社、品川は旧モービル石油の本社であり、それぞれの会社と合併したりして本社を移ったのだ。どこも思い出深い場所だが、これについてはまた別に書きたい気がする。
 
 さて6年いた関内だが前回は根岸線(京浜東北線)の西の伊勢佐木町側について書いたので今回は東の関内側について書きたい。(ここで東西とか南北とか書いているが、厳密に言えば東は北東かも知れないが便宜上そうした表現にしている)伊勢佐木町は昔の繁栄がなくなり、どちらかといえば中程度の商店街になってしまったのでさみしいと書いたが、関内側は県庁と市役所があるのでそれなりの体裁を維持している。もっとも以前は大企業の横浜支店もこの地域にあったのだが、多くは横浜駅西口に中心を移し、ここの事務所を廃止するか縮小して横浜馬車道支店とか関内支店とかしているようだ。もちろんまだここに横浜支店を残している企業もあるが、これだけコミュニケーションの手段が発達すると東京と横浜それぞれに事務所を置く必要も少なくなっており横浜支店の存在位意義そのものが小さくなっているのだろう。

 前回書いたようにわたしはこのあたりには詳しくなかったので、関内地区が昔と比べてどうかいう比較ができない。しかしここが神奈川そして横浜の中心だった頃はもっと賑わっていたのだろうとは思う。伊勢佐木町側と比較するとおしゃれなレストランや高級そうなクラブ(残念ながら行ったことはない)がまだ残っている。それでも時々以前あった店が閉まったりしているので景気は良くないのだろう。バブルの時はきっと東京並みに派手に飲み食いがあったのだろうと思う。企業の出先は減り、役所も昔のように派手に予算は使えないのだ。このエリアの雰囲気は地方の県庁所在地に似た感じがある。その地方ではもっとも整備された街で、少しすましている感じだ。もっともここは横浜だからやはりそれなりの風格と規模があり、そこらへんの地方の県庁所在地とは明らかに違っている。

 根岸線は南北に走っているので、関内駅にも北口と南口がある。南口を出ると市役所があり、市役所の前の交差点を渡ったところに横浜スタジアムがある。ベイスターズの試合がある時は駅前に弁当屋などがたくさん出て中々凄い活気だ。ベイスターズの帽子をかぶった小学生位の子が父親に連れられて球場に行くのを見るのはとても良い風景だ。やはり野球は今でも人気で子供たちの憧れはグランドにいるのだと思うと心がなごむ。市役所から県庁までの道をベイスター通りと言っているのも事務所を持って知ったことだ。

 関内駅北口を出ると関内大通りが走っている。これはベイスター通りとほぼ平行で東西に走る大きな道だ。これを一本北側に行くと馬車道がある。これは東から西への一方通行で根岸線を越えた西側で伊勢佐木町につながる。関内大通りと馬車道周辺には明治、大正、昭和の初めに作られた古い洋風の立派な建物が残っていて散歩していて楽しい。この周辺には和洋のおいしいレストランがいくつもある。概して値段もリーズナブルだ。

 こんな横浜の雰囲気というかイメージは歌に唄われている。’赤い靴’まで遡らなくても、いくつか思いつく。青江三奈の’伊勢佐木町ブルース’、いしだあゆみの’ブルーライト・ヨコハマ’、五木ひろしの’横浜たそがれ’、中村雅俊の’恋人も濡れる街角’、松任谷由美の’海を見ていた午後’などだ。今回改めてこれらの曲を聴いた。最初の二つがわたしが18歳の時の曲で、最も新しいのは中村雅俊の曲でわたしは32歳だった。他にもいくつも横浜の歌はあるがこの5曲が印象に残っている。これらを改めて聴くと当時とは違う印象というか感想を持った。其の辺のことを次回書きたい。