小保方氏の科学的態度とM・ウェーバーが主張したこと

 小保方氏が4月9日に記者会見したがその反応は様々なようだ。批判と同じくらい共感や激励があるという。わたしは小保方氏が肝腎なことに納得のいく説明をしていないと考えているので批判的だが、あの会見に多くの人が共感し支持していると聞いて、人の考えは多様だとは言え、少し驚きショックを受けた。

 今日の午後彼女の実質的な上司である笹井氏が記者会見をするそうだが、これまでに笹井氏が語っていることによると、氏はSTAP細胞の存在を否定していないという。ノーベル賞候補と言われる人がいうのだから、それなりの根拠はあるのかもしれないが、この展開を見ていると前回の当ブログで書いたように堂々巡りの議論に入っていくような感じがしてくる。

 あまりに専門的なことなので良く分からないが、STAP細胞の考え方は仮説としては面白いし、本当にあれば凄いことだと思う。 しかしこれが実際に存在するのを客観的に納得がいく形で証明されない限り、単なる面白いアイデアにすぎないはずだ。笹井氏がどう説明するかは分からないが、小保方氏の論文がそれを証明しているとはいえないようだし、会見での説明も全く説得力がない。仮説の妥当性を証明するデータも資料も示されず、ただ小保方氏が強い口調で存在を主張しただけである。仮にSTAP細胞が存在するとしても、小保方氏の今の態度や説明は科学者のそれではなく、そもそも学者としての適性や良心をもった人だとは言えない感じがする。

 なぜそう考えるかと言うと、9日の会見を見ながら学生時代に読んだマックス・ウェーバーの社会科学方法論を思い出したからだ。これは正確には「社会科学および社会政策における認識の客観性」と言う1904年に発表された論文のことだ。とても難解な本で良く分からんと言えばまったくそうなのだが、ウェーバーは社会科学における客観性とは何かを執拗に論じている。
 
 もう少し具体的に言うと、ウェーバーはわれわれが社会・経済現象からある問題を取り上げようとする時、そしてその問題を正確に議論しようとする時に避けられない事柄、すなわち自らの主観や価値観に基づいて問題を設定し、それを理論的に解明することに客観性はあるのか、あるとすればそれをどう担保するのかを論じているのだと思う。内容がよく分からないとしてもはっきりと読み手に伝わってくるのは、ウェーバーの学者としての自己統制や理論に対する厳密さである。天才とは歴史に残るような学者とはここまでやるのかという凄さがひしひしと伝わってきて圧倒されてしまう。

 もちろんその背景には社会科学が持つ科学としての難しさがあるのだろう。化学や物理のような自然科学の分野には、社会科学は科学ではないという議論すら根強くある。社会的な事象は再現不能であるため理論の法則化が困難だということでそう言われる。また自然科学の事象なり現象は万人に共通で、ある問題を取り上げる時にその人の思想や社会的地位に影響を受けることはない。問題意識の客観性を議論する必要はほとんどないのだ。だから自然科学は客観性が高く、本来の科学たりうるというわけである。

 そうは言っても社会的・経済的な事象を正しく理解し、その因果関係を解明する意味はあるはずだし、また同じような事象が繰り返し起こることがあることも事実である。ウェーバーは研究者なり関係者がこうした問題を取り上げることの難しさを説明し、彼等が科学的な客観性を保って理論を構築するにはどうすべきかを論じたのだ。

 ウェーバーの示した学者としての厳しい倫理的な姿勢と比べると、小保方氏の説明や姿勢は科学者とか学者とかというより、ファンタジーのようだ。社会科学よりはるかに容易に科学的議論が出来る分野にもかかわらず、正しいデータや資料を用いないか示さず、ただあるとだけ主張するのは信頼性を放棄していると言われても仕方ないような気がする。

 STAP仮説を考えたハーバードのバカンティ教授は、小保方氏に米国に戻って研究を続けるように呼びかけたそうだ。この教授はウェーバー的な厳密さを要求しないのだろうか?それとも何か他の理由があるのだろうか?これまでのいきさつから日本で研究を続けるのは難しいかもしれないので、米国に戻って研究をする方が小保方氏にとっても良いのかもしれない。もっともどこにいても客観的で説得性のある説明が必要なことは事実ではあるが。