危ない言葉(1)

 大田俊寛という宗教学者の’オウム真理教の精神史’を読んだ。私は宗教には疎い人間だが、オウム真理教とその事件については分からないことが多く興味を持っていたので、少しは理解が深まるかと思ったのである。この本は、そもそも宗教とは何かから始め、宗教の歴史と社会との関係を論じることで、オウムのような宗教が生まれた背景、それが過激に変化していった理由を客観的に分析しようとしている。私には大変参考になったが、もちろん全てすっきりしたわけではない。しかしそれはこの本のせいではなく、問題そのものの性格と、私の宗教に対する感受性の問題かもしれない。いずれにしろ一読に値する本だと思う。

 その中にオウム幹部であった井上嘉浩が中学3年の時に書いた文章が紹介されている。尾崎豊の詩をアレンジしたもので’ラッシュアワーの電車で通勤する中年たちの生き方が、金と欲だけにとらわれたつまらないものだ’と言った内容だ。彼は裁判で、この文章に関連し、尾崎の歌の内容が多くの若者を惹きつけた理由について次のように述べている。

 'このような、尾崎豊さんの歌にある詩の内容に、現代の若者を中心とした多くの人たちが共感を覚えていったという事実が存在する理由は、戦後、この日本に、経済成長と共に、「経済的に、物質的に、豊かになることが、幸せなんだ」というような価値観が広まっていった結果、その中において精神性を失ってしまった日本の現実の中で、多くの人たちが、この「物質主義」で出来た現実の中で、本当の自分を確かめようとし、「精神性」を見つけ出そうとする衝動を有していたからだと思います。一方、私たちを豊かにするはずだった物質主義は、〈中略〉 次の世代が生きていけないような「地球規模における大規模な環境汚染」を生じさせていくことにもなったのです’

 こうした考え方は若い人たちの間では珍しいものではない。現代社会の一面を突いているし、述べている井上のひたむきさや一途な気持ちがあらわされている。しかし同時にいかにも思いこみが激しく、物事を一面的にしか見ていない気がする。宗教に深くかかわる人は宗教に対する感受性が高いのだろうが、それは物質的なものへの嫌悪と精神的なものへの無条件な信頼という形ででているようだ。しかし多くの人たちは物質的なものは低次元で、精神的なものは優位であると簡単に結論付けて良いのか、それで問題の改善になるのか、と考えて悩むのではないだろうか。少なくとも私はそうだ。経済成長の負の側面だけを見るのではなく、プラス面も見て評価を下そうと考えることで、短絡的な結論を引き出すのを避けることが出来ると思うのだ。

 井上のような現状批判をする人が「物質主義」の社会で「本当の自分」を確かめようとする活動が出来るのは、経済成長によって豊かな社会が実現できたからだとは思わないのだろうか。貧しさゆえに多くの人たちが、幼いうちに病気で命を落とす国のことに、何故思いが至らないのだろうか。経済成長の弊害だけに目を向けて’精神性’を見出すことに夢中になることと、貧しい国の人達を救おうとして精神のことなど考えずに現実と格闘する生き方と、どちらが尊いか、または精神性を求める生き方が他の生き方より絶対的に正しいとは言えないかもしれない、とは考えないのだろうか。

 もちろんどちらが正しいかなどは、明らかに私の手に余る問題だ。しかし簡単に結論を出せるものではないことは分かる。わたしはここで宗教のことを論じるつもりはないし、そんな資格はない。私が言いたいのは、上の例にあるように、何らかの結論を手っ取り早くだすこと、何かのレッテルを貼ってしまうことの危険性だ。多くの人はこれが大好きで、またマスコミもこれを煽るが、これをすると全て説明できるような気になって、思考停止に落ちいる。上の例では経済成長は結局ネガティブな側面をより多くもたらし、人は精神性を失い愚かな存在になった。こんな世界には価値がない。宗教を信じて社会を変える(オウムの場合は人々をポアする)しかないとなるわけだ。社会に矛盾や不公平があるのは事実だが、それを一気に解決する特効薬などないのだ。面倒でも着実に変える努力をするしかない。着実に面倒なことをする、これが嫌いな人はすぐ勇ましい解決を求めたがる。
 こうなるとまともな議論が出来なくなる。私が若いころには'反動的だ’とか'体制的だ'などと言う人達が大勢いたが、ある意見に対して大多数の人たちが'体制的だ'と批判する場合、批判している方が体制的であることには決して気がつかない。今でも、’格差社会のことは底辺にいる人たちにしか分からない’、'企業は利益のためには何でもする’、'官僚は私腹を肥やすことしか考えない'、'君が代を歌うことは軍国主義に繋がる'、'米国との関係を薄め、中国やロシアと等距離の外交を行えば、世界平和に貢献し、もっと国際的に尊敬される’などなど、そうした例は枚挙にいとまがない。

 そうした意見が出てきたら、議論をある結論に基づいて進めようとしていると感じたら気を付けた方が良い。特に政治家が、もっともそれを避けるように注意すべき人達であるはずだが、彼等がそれを使い出したらとても危険だ。菅総理原発に対する対応を見ているとそんな危険を感じる。次回はその点を議論したい。