バッシングの終わらせ方

 バッシングはなぜ起こるのだろう。バッシングは恥ずべき行為だが、バッシングをする人の根底にはある種の正義感があるようだ。これが問題をややこしくしている。多くの場合バッシングをされる人の方にも何かの問題、それは言動が多くの人の考え方からすると多少または大幅にずれているといったことだが、があるので、バッシングされても仕方ない、またはバッシングしてもよい、という感覚がする側にある。自分が考える常識とか規範から外れた言動をしていても当人がそれに無頓着な場合や、その人が社会的な成功を収めている場合、おかしいではないか、何か言ってやらなくてはというのが出発点にあるような気がする。法律を犯して金を稼いだり、非倫理的な方法で会社を拡大させている人たちがバッシングを受けても当然だし、こういう人たちは法律で取り締まられる(そうでない場合もあるが)ので、ここで問題にするのはそうではないケースだ。

 

 バッシングは正義感がベースにあるといったが、その他に嫉妬や差別が絡んでいるケースが多いので感情的になりやすい。こうした感情が絡んでいるからこそバッシングをしてしまうのかもしれない。腹が立ったとしても「そんな奴もいるかもしれないな」とやり過ごせばいいのに、バッシングにまで行ってしまうのは正義感だけではない感情が入っているからだろう。特に同調する人が増えてくると根本の問題は何かがよく分からなくなるし、そこで飛び交う情報の真偽も怪しいものが増えてくる。バッシングが拡大する背景にはインターネットの普及や格差社会の広がりがあるからだと思う。匿名で意見を言えるし、誰かを非難することで日ごろのうっ憤を吐き出すことが出来る。それに加えてマスコミ、週刊誌やテレビのワイドショーなどが取り上げて人々の怒りを増幅させる。テレビのワイドショーなどは表面上は中立を装っているが、根底は視聴者の関心を引く、要は視聴率が上がればよい、といったスタンスだから、根拠のないバッシングはやめようといいつつ、問題が過熱することを黙認するし期待もしているように見える。こうなるとバッシングは簡単には終わらない。

 

 バッシングが終息するにはみんながその話題に飽きてくるか、他のことに関心が移るかしないと難しい。問題はそこに行く過程で色んな事が起こるリスクがあることだ。した側がされた側に何かの行動を起こしたり、された側がショックを受けたり悲観したりして思わぬ行動に出てしまうとかだ。こうなる前に、言い換えれば自然に終息する前に、何かの手を打ってバッシングを終わらせる方法を考え出す必要があると思う。むろん学者や評論家が言いそうなこと、もう少し心に余裕をもって言動や容姿(外国人を含め)が異なる人に対して寛容になることなどは大切だが、現実の問題はそこまで待っていられないということなのだ。わたしはメディアの役割はそこにあるような気がする。具体例を取り上げて終わらせる方法や情報を流して過度なバッシングには歯止めをかけるべきだと思う。

 

 こんなことを書いたのは、秋篠宮家の眞子さまの結婚相手の小室圭氏へのバッシングが相変わらずだからだ。小室さん母子の過去の言動については色々と報道されてきたし、それを元に想像してしまう結婚後のリスクや不安はわたしも理解できないわけではない。そのことは12月10日の当ブログでも取り上げたが、同時にこの結婚を認めると表明された秋篠宮さまの気持ちもわかるし、子を持つ親として支持すると書いた。 ここまで長い間様々な報道がされ、それを元にしたバッシングが続いてきたが、ご両人の結婚に対する強い思いは変わっていない。これは重要なことだと思う。

 

 バッシングをする人たちの中には小室氏はこの結婚で社会的にも金銭的にも大きなものを得るのだから気持ちが変わるわけはないし、眞子さまは冷静に判断できない状態なのだなどと主張する。こうした状況でも小室氏は海外の法科大学院で勉強を続け成果を上げているのは凄いことだし、眞子さまも強い意志で結婚を待っている。小室氏の過去のことよりこれからの母子の言動のほうが重要なのだからそれに注意して、二人の今後を見守る時なのではないかと思う。小室氏が結婚をあきらめ、一介の市民としてまたは法律家として生きてゆくなどと宣言すれば、バッシングをする人の留飲は下がるのかもしれないが、眞子さまの気持ちを無視した態度としか言えない。もう十分だろう。週刊誌やテレビのワイドショーはこうした視点からこの問題を報道したほうが良いのではないか。当人たちの意志と希望を理解し、今後を見守るのも国民の役目だと伝えるべきだと思う。