青木功の心技体と体罰問題

 '心技体'はスポーツ選手の間でよく言われる言葉だ。精神力、技術、体力の三つを兼ね備えてこそ、高いレベルに行ける、チャンピオンになれると言った意味だと思う。わたしのような素人はまったくそうだなと思うが、一流のスポーツ選手にはこれがしっくりこないという人も多い。

 ゴルフの青木功は'体技心'だと書いていたし、体操の金メダリストの森末慎二も'体技心'がしっくりくると言っていた。彼等が言うのは、競技選手でやってゆくには体力と技術がなければ試合にも出れないし、上位の争いも出来ないということだ。日本のトップ、世界のトップになろうとしたら並はずれた才能と努力が必要なわけで、そうした努力の結果一流選手としての体力と技術が身につき、そこから勝負が始まるということなのだろう。従って特別に秀でた才能、これは運動神経とか、激しい練習に耐える体力や精神力、努力することをいとわない向上心などを含んだ意味での才能だが、これがないとトップのアスリートなどにはなれないと言っているのだと思う。選ばれた少数の人達が戦う厳しい世界なのだから、心技体などと簡単に言ってくれるなということなのだろう。卑近な例を取れば東大野球部が何十連敗もするのは基本的な体と技で劣るからだ。

 それでは'心'はどうかかわるのかというと、同じような才能に恵まれた選手が戦った場合に差がつく要素として心をとらえているのだと思う。上述したように一流になるための才能には、運動神経や体力、精神力、向上心までも含まれると考えると、トップアスリートたちが言う'体技心'の'心'は、一般的に考える単純な精神力と言ったものではなく、ギリギリの勝負の場で発揮される力、自分の限界を超えるようなプレーを行うことができる心の強さを言っているような気がする。

 かつて新帝王と言われたトム・ワトソンは、'青木功は100ヤード以内なら世界一だ'と評した。100ヤード以内というのはアプローチ、バンカーショット、パッティングということだ。特に青木のパットはミラクルとまで言われた。以前このブログでもプロのレベルになるとパットが一番難しいということを書いたが、青木のパットは強気なことで知られる。パットは真っすぐなら比較的やさしいが、大抵は曲がるので難しいのだ。

 同じ曲がりのラインを狙うのでも、距離をぴったりに打つのと強めに打つのでは曲がり方が違う。すなわちカップに入るラインは打つ強さによって幾つもあることになる。またパットは下りより、上りの方が易しいから、下から上りのパットを打つ場合入らない時にあまり行きすぎないようにする。下りのパットを残すと次が難しいからだ。一方で大きく曲がるように打つより、出来るだけ真っすぐに打つ(要するに強く打つ)方がやさしいし、入る確率も高くなる。強く打てば入る確率は高いがはずれた場合に次のパットが難しくなり、距離をぴったりに曲がるように打つと入りにくいが次のパットが易しいというわけだ。プロの選手は余分なパットをするリスクを避けるので、距離ぴったりに打つのが普通だ。

 問題は厳しい戦いをしている時、例えば6-7mの上りの曲がるラインを入れれば優勝という時にどう打つかだ。これを入れれば優勝なのだから強気で真っすぐ目のラインで狙えば良い。プロの選手は当然ながらみんなこんなことは分かっている。しかしそうは打てないそうだ。ひとつには体に染みついた距離を合わせるパットの感覚から逃れられないこと、もう一つは強気のパットが外れた場合残りの下りのパットを外すことへの恐怖だ。6-7mを2パットでいけばトップタイでプレーオフに残りまだ勝つチャンスはあるが、3パットになれば優勝のチャンスはない。こうなるとプロの選手でも強くは打てないそうだ。その結果ワンパットで優勝という確率はどんどん低くなる。

 青木の凄いところはこんな場面で思い切って強く真っすぐに打ってこれるところだそうだ。誰もがそうしたら良いと分かっているが出来ないことを平気でやってしまう。もちろんそれで失敗することもあるが、優勝する確率はリスク回避をする選手よりはるかに高い。一流と超一流の差はこういうところなのだろうと思わせる。この理由としては青木はパットが上手いので、下りが残っても入れる自信があるということが考えられるが、それよりもそこで強く打てる心の強さによるのだろうと思う。つまり、このクラスの選手の'心'とは土壇場で能力の限りを使ってプレー出来る強さを指しているので最終局面でこそ必要になる。その前にそこに到達しなくてはならないから、まず技と体力が重要で、体技心だということになるのだろう。

 ではこうした心の強さはどうやって身につけることができるのだろうか?一つは青木のパットのように基本的に高い技術を持つことで、精神的に優位になり、力を発揮しやすくなるというのがあるだろう。また青木は生まれつき'どうにかなるさ'とか'失敗してもしゃんめい'という開き直りの精神を持っていて、それが最終局面での強さになっているようにも思える。しかし同じ技術、体力の者同士が戦う時に、最終的に勝つための精神力を何らかの方法で身につけることは出来るのだろうか?そもそもこういう状況での勝ち負けの差は精神力などではなくて、勝負のあやとか時の運なのではないのだろうか?

 スポーツの指導者の多くは精神力が勝ち負けを左右し、こうした精神力は後天的に身に付けることができると考えているようだ。恐らく自分が何らかの方法で身に付けたと考えていて、その結果成功したと信じているのだろう。そのためには体罰が有効だと考えているように思える。前々回のブログで紹介した女子柔道の園田前監督の言葉、選手にもう一歩先に進んで欲しいと思い手が出た、にもそうしたところがうかがえる。

 プロ野球楽天監督の星野仙一は以前は鉄拳制裁がしょっちゅうで、中日監督の時などは選手が気絶する位殴ったそうだ。あまりの酷さに当時の外国人選手が殴るならおれを殴ってくれと言ったというエピソードもある位だ。彼は選手がふがいないプレーをした時に殴ったそうだが、ふがいないと判断するのは星野なので、選手が精いっぱいやったのか手を抜いていい加減にやったのかは分からない。いずれにしても彼も殴ることで土壇場でも力を発揮出来る'心'を選手に植え付けることができると思っていたのだろう。青木功は殴られて練習したからあの勝負強さを身に付けたわけではないと思うのだが。こうした星野を熱血監督として持ち上げるマスコミやファンがいるのだから、この体罰問題は根が深いと思う。スポーツ界の頂点にいるような園田前監督や星野監督がそうなのだから、ましてやもっと下位レベルのチームの監督が体罰を行うのは当然だろう。

 星野監督は今回の体罰問題について意見を求められて、あまり体罰批判をすると指導者が無責任になる心配があると語ったそうだ。この言葉の裏にあるのは体罰が持つ効果への信奉だろう。前回、前々回と述べたように体罰はコミュニケーション手段の一つとして行われている。ある事柄や気持ちを伝えようとした時に体罰という形を取る。恐らくそれは'体'や'技'ではなく'心'に関するものを伝えようとする時なのだろう。企業で(一部のブラック企業は別にして)体罰を行うというのは聞かないから、これはスポーツの世界に特有なことだと思う。
 
 企業なら大人同士話せばわかるというところが、スポーツの世界ではプロや日本代表のレベルでも殴らないと分からないということになる。星野監督の言う無責任になるというのは、殴ることを放棄すると真のコミュニケーションを取る努力を怠るという意味だろう。スポーツ選手は最終的なところでは話しても分からない人種だとの前提に立っているようだ。こうなるとこうした監督に育てられた選手はまた同じ価値観を持つという体罰の連鎖が起こる。またはスポーツ選手は殴らないと分からない人種だとなり、物を深く考えない愚か者がが再生産されてしまう。こうした負の連鎖は今こそ断ち切るべきだろう。楽天球団は体罰を批判しすぎると指導者は無責任になるというような監督は直ちに解雇すべきだと思う。何故マスコミでこうした議論が出てこないのか不思議だ。

 プロ野球の世界にも野村元監督のようにID野球を標榜して頭を使えといって成功した人もいる。ぼやきのノムさんと言われ、選手のふがいなさをぼやいたり、文句を言ったりして指導した。彼がぼやくのは精神力がないというより頭を使わないことに腹を立てたからだ。彼にとっての’心’とは頭を使うということなのだろう。彼は体罰など用いなくても一流の監督になることができることを示している。彼は二宮清純氏との対談で巨人の阿部捕手についてこう述べている。'昨年の日本シリーズで、初マウンドで緊張していた澤村拓一の頭を叩いて活を入れた場面が、澤村を目覚めさせたと話題になりましたね。アマチュアならいいのですが、プロの選手にはプライドがありますよ。あとは親や奥さんがどう思うか・・・。そうしたことを考えたとき、決して褒められた行為とは言えない' 
 他の指導者たちがこのくらいの視野でものを考え、選手を指導するなら決して体罰を尊重するなどとはならないと思う。もうそろそろ日本陸軍時代からの伝統である、殴ることによる精神力の強化という幻想を捨てるべきではないのか。特に星野監督に媚を売るマスコミには徹底してもらいたい。