「人間臨終図鑑」に描かれた良寛

 山田風太郎の「人間臨終図鑑」なる本を読んでいる。これは徳間文庫の新装版で4冊からなり、923人の古今東西の人達の死にざまが描かれている。私が読んでいるのはその③で65歳から75歳で死んだ人について書かれている。

 書店の文庫売り場で山積みになっていたので、何かの理由で売れている本なのだろう。山田風太郎の本は今まで読んだこともなかったが、本屋で戯れに第三巻を2−3ページ読んだら、そのまま魅せられ買った次第である。読んでいてまことに面白く、こんなに熱中するような本はめったにお目にかかれない。何故面白いか説明するのも面倒なので、是非読まれることをお勧めする。人物の選択は著者の好みなのだろうが、紹介されている外国人については何らかの知識がある人達だが、日本人は初めて名前を聞くような人も多く、自分の無教養も再認識させられる内容だ。

 私が読んでいる3巻について言えば、外国人のエピソードの方が興味深い。西欧の大芸術家は伝記なども多く書かれるために、ドラマチックな話が多く残っているのかもしれない。
 もちろん日本人でも印象に残る人も多く、津田梅子や折口信夫の話は感動的だし、この本で初めて知った杉山元なる太平洋戦争での元帥のあほらしさも興味深い。軍人として全く能力のない人間が、官僚としての才があったというだけで将軍になってしまう日本の権力構造は、今の政治家や官僚を見ていると現在もあまり変わっていないように思える。

 この本によると良寛1831年に73歳で死んだそうだ。当時の人としては長命だったのだろう。何故良寛かと言うと、わたしが2009年の7月に、このブログの3回目に良寛の句といわれる「散る桜、残る桜も散る桜」というタイトルで駄文を書いたのだが、それが今になっても特に桜の季節には、多くの人達に読まれているからであり、良寛には特に親近感を持ってしまうのだ。もっとも良寛の辞世の句といわれるこの歌も、実際彼の句かどうかは定かではないそうだ。

 越後出雲崎の名主兼神職の家に生まれた良寛は、22歳で出家して38歳で故郷に戻り、山の庵に住み、托鉢と子供達との遊びで日々を過したとある。今もそうだが、越後は地震が多く文政11年、良寛が70歳の時に大地震が起こった。知人からの見舞状への返事に '災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。死ぬ時節には、死ぬがよく候' と書いたという。何ともすがすがしい。天災と死は逃れられないもので、生き延びるか否かは人智ではいかんともしがたいという当たり前の考え方に基づいているからだ。

 近い将来起こると言われている、南海大地震の揺れと津波の見直しが行われていて、これまでの想定を大幅に上回る震度と津波が発表された。ハード面で出来る限りの対応をすることは重要だが、30メートルを超す津波などに対処する防波堤などは現実的ではないような気がする。いたずらに対策の不備ばかりを訴えることは不安を増すばかりで、心の持ち方といった議論がもっとなされて良いのでは思う。天災は必ず起こるし、人はいつかどこかで死ぬということを正面から見つめ、それでどう生きるかを議論すべきだと思う。最近のマスコミの論調は、寿命以前に不慮の死をとげることが間違いであるような感じだが、人間に限らず生きるものは必ず死ぬという宿命からは逃れられない。

 死が難しいのは、良寛のような生き方をした人でも安らかに死ねるとは限らないことだ。生が不条理なように死も不条理だ。良寛には晩年彼を慕う美貌の尼僧貞心がおり、プラトニックな関係ながら彼につき添い彼の伝記や詩を後世に伝える上での功労者となった。死の1年ほど前から体調を崩し苦しむ良寛を看病しながら、絶望のあまり貞心は次のように詠んだという。
’生き死にの界(さかい)離れて住む身にも避らぬわかれのあるぞかなしき’

どう生きるかは人それぞれだが、死は免れないし、どう死ぬかも選べない、当たり前のことだが人生とはこういったもののようだ。