映画'沈まぬ太陽'への疑問(2)

鐘紡の会長であった伊藤淳二氏が当時の総理大臣の要請で日航の会長(当初は副会長)になったのは不可解な人事であった。45歳で鐘紡の社長に就任し、多角化路線で業績を伸ばした伊藤氏は当時脚光を浴びていた経営者であった。また労使協調路線を標榜していたことが、労使問題で悩んでいた日航の経営改善に役立つと思われたというのが通説である。

しかし伊藤氏が鐘紡の創業者の息子である前社長を追い出して社長に就いた経緯を考えると、日航のような様々な思惑が複雑に絡む国策会社のトップに相応しいか疑問があった。実際伊藤氏が副会長就任後打った手は大会社の経営者とは思えぬ姑息なものが多く、ことごとく失敗に終ったという印象がある。伊藤氏が日航を去るというニュースも当然の結果だという受け止め方が大半だった。

その後再びカネボウに戻った伊藤氏は独裁的な経営者として長く君臨し、経営悪化を招きつつも粉飾経営を続け、ついにカネボウは解体に至るのである。名門鐘ヶ淵紡績(カネボウ)は現在クラシエとして細々と生きながらえているにすぎない。伊藤氏の経営手法や実績についての評価は明らかである。


'沈まぬ太陽'における国見会長の描かれ方はモデルである伊藤氏の実態とはかけ離れている。著者の山崎豊子カネボウの末路とそこでの伊藤氏の責任について当然情報を持っていたであろうし、日航のトップとして彼が何をしたかも知っていたはずである。にもかかわらず善意に満ちた悲劇の経営者として描いたのは、彼が恩地(小倉氏)を会長室の部長として呼び戻したことによるのだろう。恩地を国民航空のただ一人の正義の人として作り上げるために、彼を呼び戻した国見も善意に満ちた人間にする必要があったとしか考えられない。その意味ではこの物語はフィクションである。

フィクションなら御巣鷹山の事故をそのまま持ってくるのは誠意あるやり方ではない。物語の骨格は事実に依存するが、ストーリー上の効果という点で不都合な事実は隠したり、歪曲するというやり方をとるやり方を全く否定するものではない。しかし物語の悲劇性や効果を高めるために、実際の悲劇の被害者や遺族まで使って話を作り上げるのはモラルに欠けると言われてもやむをえないだろう。

この映画を観た人は、これは実際の話だと感じるようにできている。これを見て上手いフィクションだと思う人はほとんどいないだろう。日本航空という会社は誠実な社員を激しい組合活動をやったという理由だけで僻地に飛ばし、政府から経営改善のために送り込まれた正義の人を追い出すような経営を続けた結果、御巣鷹山の事故を起こしたと感じさせる映画作りである。


しかし御巣鷹山の事故の原因と日航の経営陣や社員の問題は別の話である。事故調査委員会の結論は、後部障壁の損傷となっている。同ジャンボ機が数年前に起こした着陸時の損傷の修理が万全ではなかったという点でボーイング社の修理ミスというのが公式な結論である。しかしボイスレコーダーの内容から、この公式見解に疑問を持つ専門家が多数いることも事実である。要するに御巣鷹山の事故の本当の原因は解明されていないというのが真実なのだろう。

わたしは別に日本航空の経営陣を擁護しようとは思っていない。特にこの数年のやり方、決算発表や株主総会で意図的に重大な事実の発表を避けたり、マネジメント間の足の引っ張り合いを見ていると経営者としての資質に問題のある人が多いような気がする。しかし25年前を考えると、日航はナショナルフラッグとして運輸省や政治家の強い影響下に置かれ、彼らにいいように利用されていた。日本中に不必要な空港を作り、日航に乗り入れを強要していたことが日航の大赤字の一因とされているが、これなどはその典型的な例である。日航の経営陣がより効率的な運航を目指したとしても選択の幅は極めて小さかったことは間違いない。

話を元に戻すと御巣鷹山の事故は日航の経営陣が起こしたわけではない。事故調査委員会の結論はそれとして、もっと避けがたい偶然や外的な事故がからんだものだと考えるのが妥当なのではないか。この点についての本当の問題は中立な第三者の徹底的な調査がなされずに、曖昧な結論で幕引きがされていることだろう。


映画'沈まぬ太陽'は見る人に現実とフィクションを混同させ、現実の人を非難したり、賛美したりする作り方をしている。そしてその効果を高めるために、重大な点で事実ではない挿話を事実のように使っている。こうしたやり方について被害者の遺族や、関係する日航の社員はどう感じるのだろうか?物語の成功のためには、作者はそんな人達の感情を斟酌する気持ちなど無いようだ。