'風の歌を聴け’を読む 

風の歌を聴け’を読んだ。言うまでもなく村上春樹のデビュー作で、彼はこの作品で1979年の群像新人賞を受賞した。何故30年もたって今更と思われるかもしれないので、今まで読まなかった訳を書いてみたい。

1979年時点で私はこの小説の存在を知っていた。何故かというとこの作品がその年の芥川賞の候補になり、文藝春秋に掲載された当時の審査員の選評の一つがとても気になったからである。その選評によりわたしはこの小説は特に読まなくてもいいだろうと考えたといえる。結局村上氏は賞に漏れ、青野聰氏と重兼芳子氏が芥川賞を受賞した。

もちろん私がこの小説を読まなかった理由はそれだけではなく、当時ビジネススクールにいて勉強に忙しかったし、会社にも顔を出したり、妻や3歳の息子とも時間を過ごしたり、いずれにしろ他にやることが多かったのである。しかし元来本をよく読む私がこの本を手にしなかった、そしてその後も村上春樹にはなんとなく馴染めないといった感覚を持ったのは、明らかにその時の芥川賞の選考委員のコメントが原因といえた。

わたしが村上春樹の小説を初めて読んだのはそれから8-9年した後で’ノルウェイの森’だった。その出来栄えに感服した私は、熱心な読者とはいえないもののその後の村上氏の主要な作品は読むようになった。



今回のテーマは今や世界的大作家となった村上春樹がデビュー時点で誰によってどんな評価がされたかを紹介し、ポテンシャルの高い作家を早い時点で見出し評価する難しさを、芥川賞という社会的注目度の高いイベントとの関わりで論じてみたい。

私は今まで、上述した’風の歌を聴け’への選評は遠藤周作が書いたものだと思っていた。ところが今回調べてそれが大きな記憶違いだとわかった。私の記憶に残っている評はおおよそ次のようなものである。
アメリカの現代小説を模倣したような作品もあったが、わたしはこうしたものに価値を認めない’ 30年も前のことだから記憶が不確かになるのはやむ負えないが、その文章から滲み出る評者の不快感は今も鮮明に残っている。
選評というのは作家名と作品名を明示して評者の意見や感想を述べるのが普通だが、わたしの記憶にあるこの文章は、そうした言及が全くなく他の作家、作品への評の後に付け加えるように書かれていた。明らかに村上春樹とその作品を指しているにもかかわらず、作品名も書かずそうしたコメントを付けたのは悪意に満ちているように感じた。

何故、遠藤周作が書いたと記憶違いをしたかはわからない。遠藤と共に第三の新人と言われた安岡章太郎吉行淳之介も審査員にいたので勝手にそう思い違いをしたのだろう。吉行や遠藤は私が好きな作家だったので、彼らの一人がそうした選評を書いたという思い込みが私に強いインパクトを与えたのは間違いない。


今回調べてみて当該の選評とは以下のようなものだったことが分かった。
’今日のアメリカ小説をたくみに模倣した作品もあったが、それが作者をかれ独自の創造に向けて訓練する、そのような方向付けにないのが、作者自身にも読み手にも無益な試みのように感じられた。’もったいぶった文章だが、村上春樹氏の作品にはという特定もない、まるで一般的な文学論ですまして十分だという傲慢さが感じられる。 
これを書いたのは大江健三郎である。大江健三郎については元々その体質に好きになれないものを感じていたが、ノーベル文学賞を受賞した時に三島由紀夫について語った内容や、今改めて村上春樹に対するこの選評とその書きように触れて、以前から感じていた大江氏が好きになれない理由が示されていると感じた。

村上春樹芥川賞については関心を持っている人も多く、’東京紅團’というブログでは’ダカーポ’の記事を紹介し、’風の歌を聴け’が候補になったときの選考では、丸谷才一が推し、瀧井孝作が強く反対し、他の選考委員は文壇で影響力のあった瀧井氏に配慮して、もう一作見てからということで選に漏れたとある。選考会の議論の実際はわたしなどには知る術もないことだが、文藝春秋に載った各選考委員の選評からは村上春樹への評価が窺えるので簡単に見てみよう。10人の委員のうちはっきりと論評したのが3人で、村上春樹と明記せずにに論評したのが前述の大江健三郎で、後の6人はコメントなしだった。これらの人たちは受賞した作品についての選評を寄せている。

最も強く推したのは丸谷才一である。氏はこう書いている。
'村上春樹さんの゜風の歌を聴け゜は、アメリカ小説の影響を受けながら自分の個性を示さうとしています。もしこれが単なる模倣なら、文章の流れ方がこんなふうに淀みのない調子ではゆかないでせう。それに、作品の柄がわりあい大きいやうに思ふ’私にはこの丸谷氏の選評は可なり控え目なものに感じる。もしかしたら選考会での議論を踏まえて抑えた書き方をしたのかもしれない。丸谷氏は’風の歌を聴け’が群像新人賞をとった時の審査員でもあり、その時の選評では村上春樹の才能を詳しく論じ’この新人の登場は一つの事件だ’とまでいっているからだ。’日本的抒情によって塗られたアメリカふうの小説といふ性格は、やがてはこの作家の独創といふことになるかもしれません’と予測した丸谷氏の炯眼は恐るべきものがある。

一方明確に反対したのは前述の大江健三郎瀧井孝作である。瀧井氏は次のように述べている。
村上春樹氏の゜風の歌を聴け゜は二百枚余りのながいものだが、外国の翻訳小説の読み過ぎで書いたような、ハイカラでバタくさい作だが・・・このような架空の作りものは、作品の結晶度が高くなければ駄目だが、これはところどころ薄くて、吉野紙の漉きムラのようなうすく透いてみえるところがあった。しかし、異色の作家であるようで、わたしは長い目で見たいと思った。’大反対したとの割には穏当な書き方のように思えるのは、丸谷氏の意見等の影響があるのかもしれない。しかしよく分からんというのが本音のようだ。

またわたしが勘違いをしていた遠藤周作も以下のような選評を寄せている。
’村上氏の作品は憎いほど計算した小説である。しかし、この小説は反小説の小説と言うべきであろう。そして氏が小説の中からすべての意味をとり去る現在流行の方法がうまければうまいほど私には゜本当にそんなに簡単に意味をとっていいのか゜という気持ちにならざるをえなかった。こう書けば村上氏は私の言わんとすることを、わかってくださるであろう、とに角、次作を拝見しなければ私には氏の本当の力が分りかねるのである’
私の記憶とは反対に、才能ある後輩に対する思いやりと敬意にあふれた文章で、個人的にはうれしい発見だった。

いずれにしろ、外国かぶれのバタくさい、薄っぺらな小説という評で、高校時代から教師にアメリカ文学はヨーロッパやロシアの文学に比べ底が浅いと教え込まれていた私は村上春樹を長いこと読まなかったのである。


村上春樹は’1973年のピンボール’で翌年も芥川賞の候補となるが結局選ばれなかった。(その時は当選作なし)
この時は丸谷才一吉行淳之介大江健三郎が推して、中村光夫が批判している。中村光夫の批判も紹介しておこう。
’ひとりでハイカラぶってふざけてゐる青年を、彼と同じやうに、いい気で安易な筆づかひで描いても、彼の内面の挙止は一向に伝達されません。現代のアメリカ化した風俗も、たしかに描くに足る題材かも知れない。しかしそれを風俗しか見えぬ浅薄な眼で揃へてゐては、文学は生まれ得ない、才能はある人らしいが惜しいことだと思ひます。’

前年の瀧井孝作と同じで全く分かっていないし、これだけ批判した後で’才能のある人らしい’と書く神経は理解できない。要するに時代についていけない人達が過去の遺産で選考委員をしていたと判断せざるを得ない。1980年時点で瀧井孝作が86歳、中村光夫が69歳である。彼らが村上春樹が従来の小説作法では自分の心情を正確に表すことが出来ないと感じていたこと、アメリカ的な道具立てがそれに最も適していると考えた結果の作品だったことを理解出来なかったのは仕方がないかもしれない。こんな人たちを長々と選考委員にしておいた芥川賞文藝春秋)のお粗末さを批判すべきだろう。


丸谷才一と共に村上春樹群像新人賞に推した吉行淳之介が後に、何故村上氏を強く芥川賞に推さなかったかについて述べている。要するに芥川賞は単なる新人作家の登竜門ではなく社会現象になっているので、村上春樹が受賞した場合その騒ぎの中で作家として良い仕事を続けられるかという点で不安があったというような内容だった。群像新人賞ならその時の作品と感じられた才能を評価して選べるが、芥川賞だと慎重になってしまうということだろう。しかしその結果、芥川賞には従来の小説作法に則ったものか、幾分かの新しさを付け加えたようなものが選ばれる。要するに多くの選考委員に理解される無難なものが選ばれることになってしまう。

風の歌を聴け’は第一級の青春小説だと思う。しかしこれを1977年の受賞作’僕って何’や1978年の’九月の空’等の青春小説と比べると違いは明確である。村上春樹は従来の小説技法に対する懐疑から出発しているのに対し、比較した2作は無邪気なまでにリアリズムへの信頼がある。わたしはどちらも良い作品だと思うし、’九月の空’などこの時代にこんな青春小説を書ける人がいたことが驚きだった。しかしその後の、三田誠広高橋三千綱の作品と比べて村上春樹の仕事ぶりは明らかに違う。それは初めから違っていたのである。それをほとんどの選考委員は理解出来ず、三田誠広高橋三千綱の作品は当然ながら良く理解できたのである。



こうしたメカニズムはビジネスの社会にもみられる。会社の幹部が将来の後継者の候補を選ぶというのがそうだ。会社が持つ基準でポテンシャルの高い社員を選び育成してゆくのが原則だが、実際は表面的な印象に強く引きずられ、特に頭は良いが生意気で反抗的な社員は選ばれにくい。特に営業でたたき上げたような幹部にはその傾向が強い。ビジネスの世界は最終的には実行力、決断力の勝負だが、幹部候補生を選ぶ過程でやはり重要なのは本質を見ることができる頭脳と、実際のビジネスや現場への強い興味や好奇心である。こういう社員はえてして生意気だし、従来のやり方に否定的な意見を持っているので、理屈が多いとか頭でっかちとかいわれ幹部候補に選ばれにくい。しかしよいものを持っているなら選んでおいて、育成の過程で本来の意味でのリーダーシップがあるか、論理的で迅速な意思決定が出来るかをチェックすればよい。本来高い能力を持つ社員を埋もれさせ、今役に立ちそうな社員を選ぶような企業が非常に多いと思う。

最後に2作目の’1973年のピンボール'では村上氏の名前を出して肯定的な評価をした大江健三郎の選評を紹介しておこう。
’そのような作品として、村上春樹の仕事があった。そこにはまた前作につなげて、カート・ヴォネガットの直接の、またスコット・フィッジェラルドの関接の、影響・模倣が見られる。しかし他から受けたものをこれだけ自分の道具として使いこなせるということは、それはもう明らかな才能というほかにないであろう。’

ここに見られる大江の村上への評価は多分に屈折していて、アメリカの小説から受けたものを自分の道具として使いこなしている点を認めているにすぎない。そこにあるのは自分のように独自の文学や方法論は村上春樹にはみられないが、それなりの才能は認めてやるといった態度である。大江健三郎もフランス文学の影響を受けて小説を書き、芥川賞をとったのだ。フランスの小説は良いがアメリカの小説の影響を受けたものは一段落ちると思っているのだろうか。こうした態度をとっていた大江もその後村上の評価が高まるにつれ手のひらを返したようなコメントをしているという。

この点については’横浜逍遥亭’というブログの2006年11月9日に詳しい。このブログのオーナーである中山隆という人も、村上春樹に対する芥川賞選考での大江健三郎のコメントが気になっていたという。この人は私と違い大江健三郎の文学の愛好者でもあるらしいのでバランスがとれた良い文章になっている。是非お勧めしたい。この方は写真の腕も中々でversatileな人だという印象を受けた。

゜風の歌を聴く’を読んだ感想については次回に書きたいと思う。