’散る桜、残る桜も散る桜’ 

25年くらい前になると思うが、銀行に勤めていた学生時代の友人がニューヨーク勤務を終え帰国した頃に会ったことがある。どういういきさつか忘れたが、彼が’アメリカ人は本当に馬鹿ばっかりだからな’と話すのを聞いて妙に思った記憶がある。わたしがアメリカ系の企業にいたことに対する皮肉かとも思ったが、わたしが仕事上かかわりあっていたアメリカ人は、性格的には色々いたが、おしなべてビジネスマンとしては大変優秀であり、他国の文化をそれなりに尊重しようとする態度を持っていたからである。

そのとき私が言おうと思ってやめたのは、’ニューヨークで優秀なアメリカ人が日本の銀行のNY支店に入るわけがないよ。君が付き合っているのははっきり言って程度が良くない人たちだからそう感じるのだ。’ということだった。日本企業のなかでは製造業の評価は海外でも高いが、サービス業(特に金融)は国内と異なり全く評価が低い。ましてや25年も前だと’優秀なアメリカ人が日本の銀行の支店に入り日本人の部下になる’ことなどありえない。そうしたコンテクストで考えると彼の感想はわからないでもないのだが、海外勤務をしてこんな印象を持って帰国するのは矢張りまともな外国人との付き合いがなかったか、それなりの努力をしなかったからと思われ、折角外国で暮らしたのに’もったいない’と思わざるを得ない。


次は笑い話のたぐいだが、15年前にわたしが会社のトレーニングで2週間シンガポールセントーサ島に滞在した時のことである。土曜の夜が空いたので、ある大手製造業のシンガポール支店に転勤していた友人と会った。彼は初めてのアジア勤務で色々と苦労していた話をしてくれた。取引先を訪問するために現地社員のドライバーと待ち合わせ時間を決める時、ドライバーが’XXサン、カパテンタ’と遠くで叫んでいるのが全く理解出来ず、他の社員に聞くと’Car Park at ten thirty'とのことだと教えてくれた。’まいっちゃうよ’と言ってビールを飲む彼は相当に可笑しかった。

わたしもその後人事に異動後、アジアパシフィックのマネージャー達と年に3度ほど会議を持ち、それ以外にも電話会議などで頻繁に話すようになり、アジアとオーストラリアの英語には悩まされたがそれはほとんど慣れの問題だった。もちろんマネージャーたちはほとんどが欧米で高等教育を受けた人達だから洗練された英語を話すのは当然だが、持ち回りで各都市で会議をした時に会った現地の法人の秘書やクラーク(彼女等は世話係として会議室の外に待機してタイプや、メールの取次、フライトの変更等をしてくれる)の英語も相当に上手いものだった。私には残念ながら’カパテンタ’のような経験はない。


当たり前のことだが、どの国にも頭のよい人間もいるし、悪い人間もいる。他国と比べ日本の人たちの多くが良い教育を受け、結果として平均的には知的水準が高いのは事実である。それは幸福なことであり、誇りに思ってよいことだが、これが民族としての優秀さを意味しているわけではない。また社会の上層クラスとなると日本人が特に優れているとは全く思えない。国際的な基準でのマナー、物腰、論理性、リーダーシップ、コニュニケーション等の項目で評価したら、せいぜい中程度というのは政治家を見ればよく分かる。エクソンエクソンモービルといった世界最大級の企業に勤めるということは、子会社で働くことの苦労やフラストレーションはあるが、幹部になると国際的なレベルで優秀な外国人ビジネスマン達と対等に仕事をすることを求められ、世の中の事象を外国人幹部と同じ視点で考えることが訓練されるという点で、日本の企業、それがいかにグローバル企業を標榜していても、では中々得られない経験となる。
そうした中で、人種や学歴にとらわれずに相手を評価し、認め合うことが身についてゆく。(余談だがエクソンなどにいると東大とか、慶応とかの学歴は全く意味を持たない)

わたしが日本に赴任していたアメリカ人幹部との付き合いの中で印象に残ったエピソードを一つ紹介しよう。

ある時日本人の役員の退職慰労会をアメリカ人と日本人2人ずつの4人でおこなった。場所は六本木の料亭と小料理屋の中間のようなところだった。先についたアメリカ人のB氏(フィナンシャルディレクターで日本法人で当時ナンバー2の人だった)とわたしは他愛のないおしゃべりの後、床の間の掛け軸に眼を向けた。古びた掛け軸には草書で歌が書いてあり、わたしはB氏に’読めるか’と尋ねた。彼はじっと見てから’散る桜、残る桜も散る桜’と読んだ。エールの大学院で法律を専攻していた時に日本語を学び、20年以上前にも日本勤務があったと聞いていた彼なら読めて当然とも思い、’どういう意味?’と尋ねた。彼は少しの間考えてから’人生は儚いね’と答えた。

良寛の辞世の句として知られるこの歌を(今回インターネットで調べたらこの点の真偽は不明とのことでした)見事に解釈したB氏の知性には恐れ入るほかはなかった。日本人の若い人たちがこれについて同様な解釈ができるだろうかと考えると複雑な気持ちになった。人種や文化にかかわらず、優れた人は優れていて、優れたものを正当に理解できるという当たり前のことを感じたひと時だった。