小説とカタカナ英語

 カタカナ英語についてはこのブログでも取り上げたし、様々な議論がされている。インターネットで検索すると海外生活体験者にはこれに対する拒否感が強いようだ。何年振りかで日本に帰るとカタカナ英語の氾濫に驚く。文化人などがTVや雑誌でカタカナ英語を多用するのに違和感を持ち、日本語なり、日本への誇りはないのかと怒りを表すといったのがよくあるケースだ。英語が可なり出来る人達には、彼らより英語力が劣る人達がカタカナ英語を多用して議論で優位に立とうとしたりする態度が許せないのだろう。彼らの気持ちは理解できるが、その意見や態度のベースには自分たちは英語が非常に出来ると言った優越意識があるのは否定できないだろう。

 そうした議論はあるものの、小説などではカタカナ英語がよく使われている。小説家はまさに日本語を使うプロだから、彼等が書く小説でカタカナ英語を使用するのはほとんど確信犯的行為といってよいだろう。もちろんここではテーブルとかサッカーとかジャケットのように日本語化された言葉を指しているのではない。日本語でもいい表せるがカタカナ英語でもいいかなといった微妙な表現である。村上春樹などもその一人でカタカナ英語の使い方が絶妙だと思う。

 彼は日本語と対応しうるカタカナ英語の使用だけでなく、外国人歌手や俳優の名前を使ったり、上記の例で言うとサッカーをフットボールといいかえたり(本当に彼がこの表現をしているか分かりませんが、一般的な英語から別のちょっとなじみのない英語に変える例、彼はこれを多用する、としてあげています)するので、文章中にカタカナがやたら多くなるので実態以上にカタカナ英語を使っているという印象を与える。
 マアこの辺が彼の巧みなところで文章にカタカナを多く入れることの効果をあげながらも、文章そのものは基本的に分かりやすい日本語を使って出来ている。先の外国生活体験者などの批判にも十分耐える範囲でのカタカナ英語の使用とも言える。この辺の巧みさを日本語の使い方に厳しいあの丸谷才一も感心したのだろうと思う。

 それでも先月の文芸春秋に掲載された彼の最新の短編の中に、゜マイルドな既視感’(今本が手元にないので確実ではないのですが多分こうでした)などという表現があり、上手いなあと思いながらもこれでいいのかといった気持にもなる。ノーべル賞候補の大作家に言うこともないのだが、気になるのは気になるのである。
 
 何故今さらこんなことを書くのかというと最近読んだ誉田哲也の゜感染遊戯’という小説のせいである。文庫で三百五十ページの本だが四つの短編、中編から出来ていて、それぞれが独立した小説の装いを持ちつつ最後まで読むと一つの物語になっているという中々凝った出来栄えの小説である。読んで損はない水準の小説といっていいと思う。

 四つの話のタイトルは゜感染遊戯゜、゜連鎖誘導゜、゜沈黙怨嗟゜、゜推定有罪゜なのだが、それぞれのタイトルの下に、゜インフェクションゲイム゜、゜チェイントラップ゜、゜サイレントマーダー゜、゜プロバビリティギルディ゜と英語の(カタカナ英語の)タイトルがついているのである。わたしはカタカナ英語のタイトルをつける意味と効果を考えたが、全く分からなかった。良い出来栄えの小説なのにこんなタイトルをつけるとかえって安っぽく見られてしまうと思うのだが。この人の他の小説はカタカナ英語のタイトルの物がとても多い。もしかしたら上記のカタカナ英語が元のタイトルで、読者が分からないといけないので日本語にしたのかもしれない。しかしどちらか一方にした方が良かったと思う。