ニッカウヰスキー余市蒸留所

 小樽観光のついでに余市に行き、ニッカウヰスキーの蒸留所を見学してきた。小樽は典型的な通俗的観光地だったが、余市の工場はわたしを魅了した。以前にもサントリーの白州ウイスキー工場に行ったことがあるが、こちらの方が印象的だった。

 余市ウイスキー蒸留所はそのたたずまいが何とも言えない。ウイスキー蒸留所は大抵都会から離れているため、どこも緑に囲まれている。本州の蒸留所は山の中にあるが、余市はJRの駅から至近のところにあり、よってフラットな地形である。従って緑豊かな郊外の公園に幾つかの工場の棟が点在するといった風情で、各棟の作りも木と石のぬくもりが感じられてとてもリラックスする。もちろん冬の気候の厳しさは半端ではないのだろうが、無責任な言い方をすれば、冬は冬で厳しいながらも優しさを感じさせる情景なのではと感じてしまう。

 現地で説明を受けた余市の蒸留所の歴史は、それはニッカウヰスキーの歴史と言っても良いが、とても興味深いものだった。この蒸留所は1934年に竹鶴政孝がジュース製造工場として始めたものだ。果汁100%のリンゴジュースは価格が高くてあまり売れず、紆余曲折の後1940年に最初のウイスキーを販売した。

 竹鶴政孝は1894年に広島の造り酒屋に生まれ、大阪高等工業(今の大阪大学)卒業後、洋酒業界で有名だった大阪の摂津酒造に入社した。当時は日本に本格的なウイスキーがなかったので、ウイスキー造りを学ぶため1918年に会社から派遣されスコットランドグラスゴー大学に留学する。1920年に帰国するが、不況で摂津酒造はウイスキー造りに乗り出せず、退社した彼は桃山中学(現在の桃山学院高校)で化学の教師となる。1923年に寿屋(現在のサントリー)が本格的ウイスキー造りを始める際に、スカウトされ山崎工場の工場長となる。10年間寿屋に勤務した後で、出資者を得て、余市に工場を作ったというわけだ。
 政孝は典型的なエンジニアだったらしく、品質にこだわり商売のセンスはあまりなかったようだ。寿屋時代にも開発に金ばかりかかって商品が完成せず、鳥井社長は金繰りに苦労したそうだ。戦後のウイスキーブームの時も、品質の落ちる廉価版ウイスキーを製造販売するのを好まなかったという。

 竹鶴政孝に関してもう一つ忘れてはならないのは、留学時代に知り合ったリタとの恋愛だろう。周囲の大反対にも負けず政孝はリタと1920年スコットランドで結婚し、同年の秋に二人で帰国した。大正時代のことだから、リタは遠く遅れた日本によく嫁いだものだと感心する。1935年には余市に移ったそうだが、当時の余市は(今でも都会とは言えないが)何もないさみしい所だったのだろう。余市の蒸留所には政孝とリタが暮らした家(リタ・ハウスと名付けてある)が残存し、一部が公開されている。

 こうした過去を見ていると、余市の蒸留所にはストーリーがある。そのストーリーの土台となっているのは、竹鶴政孝ウイスキー造りへの執念だ。平和で穏やかな夏の余市蒸留所は、政孝が生涯を賭けた夢のために造った仕事場だったのだ。政孝は今風に言えば起業家になるのだろうが、余市の蒸留所でわたしは政孝の起業家としての夢と信念を感じた気がする。それ故この工場が私を魅了したのだろう。もちろんリタのエピソードもそれに一役買っている。人の金を動かして利益をあげることが流行のような今の時代に、物作りに正面から挑んで人生を賭けた男の足跡に触れて感動しないわけはないと思った。