「人生の3分の2は・・・」

 「人生の3分の2はいやらしいことを考えてきた」 これは’みうらじゅん’が週刊文春に連載している「人生エロエロ」というエッセーの書き出しである。このエッセーは毎回この書き出しで始まる。エッセーの導入としてこれほどインパクトがあってモノの真髄を付いたものをわたしは知らない。イラストレーターの肩書きながら様々な分野で才能を発揮しているみうら氏だけあって、最初の一行で読み手の心を掴んでしまう。あまりに含蓄の深いこの書き出しについてあらためて考えてみたい。

 この書き出しの面白さは’人生の3分の2’という量というか時間で自分がいやらしいことを考えた度合いを示していることにある。普通いやらしさというと’なん人とやった’かとか(下品ですみません)こんな行為をやったとかであらわす(または自慢する)ものだが、みうら氏はこれだけの間考えていたと言っている。まあ四六時中考えていたようだが、これなら下品さはなくそこはかとないペーソスを感じさせる。これが2分の1だと凡庸でインパクトがないし、4分の3だとかなり変じゃないかとなってしまう。3分の2と言われると「そうか、分かるなあ。おれもそうだよ」と納得してしまう人が多いような気がする。

 人生の3分の2はちょっと測りづらいので1日の3分の2と考えると16時間である。毎日16時間いやらしい事を考えるのはちょっと信じがたいとすると、起きている時間の3分の2では12時間(6時間眠るとして)となりこれでもホントかなというか堂々たるものである。こう考えると3分の2は具体的な時間の長さというより感覚的な時間の量ということなのだろう。そういいつつも2分の1ではなく、4分の3でもなく、3分の2が良いとするのだから絶妙のさじ加減で、恐るべき技と言えるだろう。この書き出しだとつい最後まで読んでしまうのだ。

 視点を変えてこの書き出しを考えると世代的な特徴を感じる。「人生の3分の2はいやらしいことを考えてきた」というフレーズに無条件に共感するのは団塊の世代から15年くらい後までなのではないだろうか(1947年から1962年の生まれだ)。わたしは1950年生まれだし、みうら氏は1958年生まれである。もちろん個人差はあると思うがざっくり言ってこんな感じがする。これより前の世代は飢餓感というか空腹感がまさっていたような気がして、わたしたちほど無条件でこの書き出しに納得しないのではないかと思う。
 
 もっと後の世代は性的な環境が変わってしまっていたので、例えばAVが簡単に手に入るとか低年齢で性体験をするとか、人生の3分の2もいやらしいことを考えていたりしないのではないだろうか。考えるより見たり体験したりして、性は数ある興味の一つに過ぎなくなっている感じがする。こうした世代にはゲームの方が性より興味があるようだし、もっと言えば物凄くやりたいことが見つからないのかもしれない。

 みうら氏のエッセーが人気があるとすればこの週刊誌の読者の大半が上記の世代だからなのだろう。もっともみうら氏は‘マイブーム’や‘ゆるキャラ’の名付け親として世代を超えた支持を得ている。そうした側面とエロ追求家の側面を(それだけではなく仏像追求家でもあるし他にも興味の範囲は広い)あわせもっていることがエロ関連のエッセーでも深い味わいを感じさせるような気がする。