問題は朝日新聞及び社員の体質だ(1)

 朝日新聞が大揺れ状態だ。身から出た錆といえばそれまでだがここで
また下手な対応をすると命取りになりかねない。バブルの頃までは肩で風を切っていたあの都市銀行の大半が今やなくなっていることを考えると、大企業も一度落ち目になるとあっという間に転落する。慰安婦や吉田調書の問題だけでなく、古くはサンゴの偽落書き事件や任天堂社長インタビュー捏造と、この新聞社には平気で事実と違うことを書いてもバレなければいいという倫理感の欠如のようなものがあるようだ。

 従軍慰安婦と吉田調書については色々なコメントや記事が出ており、その問題が起こった原因も議論されている。そうした指摘はもちろん有益で今後に生かされなくてはならないが、それだけで朝日新聞がこうした問題を起こさなくなるかは疑問だ。40年間朝日新聞を読んできた経験から言うとこの新聞社の体質に、間違いを犯しやすいものがあると感じる。その体質は社員にもしっかり植えつけられていて、またはその体質を本来持った人を採用していて、彼らが作る記事は本質的に過ちを犯しやすいように思える。

 もっとも一つ言っておくと、大手の新聞記者には共通したものがある。それは傍若無人で傲慢な態度である。取材はともかく、なにかの会合や私的な集まりなどで会った時の記者の態度にはいつも不快感を持った。いきなりお前呼ばわりされたり、勤務する会社の情報を聞かれたり、不愉快な経験しかなく、何でこの連中はこうもえばっているのかと考えさせられたものだ。どうも明快な答えが見つからず、まあとても育ちが悪いか、何かの強いコンプレックスを持っているとしか思えなかった。もちろん中には立派な人もいて、それはどの業界でも同じだがヤクザな連中の比率の高さとまともな連中の比率の低さは他と比べ物にはならない。同様に態度が悪い業界といえば官僚と医者だが、まだこれらの連中の方がまともさは上だと思った。

 わたしが朝日新聞を読み始めたのは結婚をしてからである。わたしが育った家ではずっと日経と読売をとっていたので、大学を出るまではこの2紙しか読んだことはないといっても良いほどだった。妻の実家が朝日を読んでいたのでわたしも購読を始め、40年たった今でも続いている。流石に最近は妻がもう日経にしようかと言ったりするので他紙にすることになるかもしれないが、妻によるといつまでだか購読の契約があるそうでそれまでは替えられないという縛りがあるようだ。

 朝日を読み始めた頃はとても新鮮に感じたことを覚えている。紙面の作りもモダンな感じがしたし、社会面の記事の書き方も読売と比べて抑制が聞いているようだった。しかし1年ほどすると何か違和感を持つようになった。要するにはっきりモノ言わず、それとなく偉そうな指摘をする、また自分たちの主張と異なる意見も違うページに載せていて、都合が悪くなった時の言い訳を用意しているように感じたのだ。
 簡単に言うと自民党や官僚、財界の主流には批判的で、上手くいった政策に対しても、'しかしこうした懸念がある'と書いてケチをつけるのだが、'じゃあ、どうすればいいんだ?'という疑問には決して答えてくれない。一方で弱者や庶民(またそう見える人)には無批判に肩入れをし、自分たちのそうした姿勢に酔っているようだった。

 小学校の時の教師が褒めていた天声人語も初めはよく読んでいたが、偉そうな割に内容が乏しい気がしてすぐに興味を失ってしまった。一言で言えば、'それがどうした?'と感じる内容が多くてイライラしたのだ。このお粗末なブログでも続けて書くのは大変なので、チーム組んでいるとはいえ毎日書くのが大変なのは分かるが、今のままではもう時代的使命を終えていると言っても良いと思う。もっと率直かつ謙虚な姿勢で、正直な意見を明確に述べる形にしないと天声人語を読む人はどんどん減っていくだろう。

 上から目線で偉そうにのたまり続けながら、一方では妙に庶民への共感を示す紙面づくりを見ていて、一体朝日新聞は誰にメッセージを送っているのだろうか思うようになっていった。自分が様々な経験を積み世の中が見えるようになるほどにその思いは強まった。これだけ高学歴の人が沢山いる時代で、かつ海外で育ったり、仕事をする人が多いのに、朝日の記者は自分たちだけが世の中の情報を手に入れて、その内容を理解している思いこんでいるようなのだ。自分たちの解釈が必ずしも正しくないとは考えずに教えてやろうという姿勢のままで、まったく時代錯誤に陥っていることに気づいていないのである。

 だいぶ前に誰かが朝日の紙面に朝日の印象を'田舎で町(村)始まって以来の秀才と言われた人達がが集まって作っているようだ'と(正確には記憶していないがこんな内容だったと思う)書いていたが、つくづく上手いことを言ったと思う。(朝日にもその頃はこういうことを書かせる余裕があり、それが朝日の良いところだった)
 朝日の記事からわたしが感じるのは、記者の強いエリート意識と自分たちがかなわなかった人達への反発とコンプレックスだ。例えば大学で出会った自分よりもっと出来る人達へのコンプレックスとか、そうした人達が入った中央官庁や大企業への批判的態度、彼等がそうした場所で権力を振るうことへの反発が記事の背景にあると思う。また世襲の代議士や経営者への反発も強く、特に彼等が自分たちより偏差値の低い大学を出ていた場合、権力を行使する彼らに強い批判精神を発揮する。もちろんジャーナリストとして権力に批判的なのはある意味当然で、それ自体が悪いわけではない。

 朝日新聞の問題点はそうした気に入らない組織や人には初めからある結論を持って記事を書こうとすることである。ある事象の解釈もその結論に沿って行うので、客観的に妥当かどうかきちっと検証されない。政治や経済の出来事は多くのことが極めて複雑に絡み合っているから、どうとも解釈出来る所があり、これが絶対正しいとは言いにくいことが多い。だからと言ってあらかじめ持っていた結論なり印象に合うように物事を解釈していたら間違いを犯すのは当然だ。慰安婦問題も吉田調書もこうして考えると何故起こったのか分かる。冷静、客観的に現実やデータを分析した結果、それらが自分の持つ結論をサポートしていないと考えたらそれを受け入れるべきなのだ。自分の結論(仮説と言っても良いが)が誤っていたこと認めなくては、正しい議論にはならない。朝日は紙面でこうしたことを人を批判する時に言うのだが、自分に対しては忘れてしまうようなのだ。この点については子供のように我儘で自分勝手だ。

 最近もエコノミスト高橋洋一氏が書いていたが、高橋氏も朝日のジャーナリスト学校が発行する雑誌から記事の掲載を断られたそうだ。氏はアベノミクスの評価について原稿を依頼されて、肯定的な評価をした記事を書いたところ、'内容が高度すぎる'言う理由で掲載を見送るとし、原稿料は払うと通知されたそうだ。アベノミクスに批判的な記事を書き続けている朝日としては高橋氏の原稿が気に入らなかったようなのだが、氏は具体的なデータを挙げて自らの主張とこれまでの朝日新聞の記事を比べている。朝日がすべきだったのは掲載をやめることではなく、高橋氏とデータの解釈に基づき政策の評価について論争することなはずだ。しかしそうはせず、自分の意見にあわない原稿はぼつにする。これでは信用を落とすばかりだ。

 こうした態度はいわゆる弱者や庶民に対しても変わらない。この人は被害者でかわいそうだと考えると、そうした結論を持って現実を見つめる。結論に合わない事実は無視する。だから間違いを起こす。しかし自分たちのような優秀な人間が間違うはずがないと考える。さらに弱い立場の人を助けるのだという正義感にもあふれる。結果目が曇って客観的に物事が評価できなくなる。朝日にはこんな感じの記事が良く見られる。
 
 慰安婦と吉田調書について朝日は世間に謝ったと言いたいのかもしれないが、問題をこの二つの特殊な出来事での失敗ととらえているなら間違いだ。根本的な問題、偉そうに人を批判するのに自分たちには甘い、を見つめなおして自社が持つ矛盾を直さないと本当に駄目になると思う。次回はこの点について論じてみたい。