ポーラ美術館に行く

 9月の初めにポーラ美術館に行った。箱根に行くたびに一度行きたいと思っていたが今回やっと実現した。ポーラ美術館はそれなりに名前が知られているし、箱根はわたしの家から近いので、中に入ってみても意外感というか特別な驚きのようなものはない。しかし休暇の時に地方に行って偶然美術館を見つけ寄るような時には、ここにこんな絵や彫刻があるんだなどと驚いたりすることが多い。それは中々楽しいサプライズだ。福島の諸橋美術館、山形の山形美術館、下田の山にある上原美術館などは、その存在も知らなかったので(これは単にわたしが無教養だからで、少し美術に興味がある人には知られた存在なのかもしれない)展示品を見た時はとても感心した記憶がある。これ以外にも地方の有名、無名?の美術館に行ったが、どこもそれなりに興味深いものだった。

 国や県が所有していないもの、すなわち個人の美術館は当たり前の話だが大金持ちのコレクションがベースになっている。維持や相続のことを考えて美術館にするのだろうが、こういう人は大抵企業の創業者かそれに準ずる人で、自分の会社を大企業に育て上場したりして大きな資産を築いた人だ。人は金が出来ると美術品を買いたいと思うのかもしれない。もちろんこういう人達は元々美術に興味があるのだろうが、高価な別荘や車などでは刺激を受けなくなるくらいの金持ちになると、美術品は魅力的な対象になるのだろう。

 以前読んだジョン・グリシャムの弁護士小説には、金持ちの定義としてプライベートジェットを所有していることと書いてあった。これにはパイロットやスチュワーデス(死語ですがここではこれしか適切な言葉はないと思う)も雇わないといけないから、莫大な初期費用に加えて多額の維持費がかかり確かに贅沢で大金持ちしか出来ない。美人のスチュワーデスをはべらせ、空の上でワインか何か飲んでいたら、もうこれはアメリカンポルノの世界で、'人生の3分の2はいやらしいことを考えてきた’と書くみうらじゅん氏でなくても男の夢という感じがする。

 大金持ちになるとこのように何でも買え、何でも出来てしまうのだろうが、某電鉄会社の元オーナーのように金と権力にものをいわせて、自分の秘書は皆手を付けてしまうとかするより、美術品に金をかける方がよほど良いだろう。そんな金持ちになってみたい気もするが、好きなものは何でも買えるのもつまらないかもしれない。金で買えないものは買えないのだし。だから美術館以外でも学校(特に大学)などを作りたがる人がいるのだろう。彼らの多くは学校とか教育には興味はないが、学校経営者という肩書や名誉が欲しいのだと思う。名誉は本来金で買うものではないはずだが、もらえないが欲しい人は金で買うことも出来るというわけだ。そう考えるとやはり美術館を作る方が自分の趣味に関連していると思われる分だけ良いのかもしれない。

 いろいろと話が飛んでしまったがポーラ美術館に話を戻すと、これもポーラ化粧品のオーナーの鈴木常司氏が作ったものだ。強羅から仙石原に行く裏道にあり、森に囲まれた瀟洒な建物だ。今展示しているのは国立西洋美術館と共同の’モネ 風景を見る眼’と題したものだ。当然モネの絵が中心だが、セザンヌピカソゴッホなどの他藤田嗣治の絵も見られる。わたしは特にモネのファンではないが、見ごたえのある展示だと思う。

 有名な作品が多数展示されている美術館にいくたびに感じるのは、こんなの描かれたら後に続く人は(今勉強中の人は)かなわんだろうなということだ。今回モネを見てもやはり同じ感想を持った。こんな才能を見せつけられたらもう自分が描く物はないと考えてしまうのではないか。才能の量が少ない人はともかく、相当の才能を持った人ほどそう感じるのではないだろうか。それでも絵を描くことでしか生きられない人たちが絶望と戦いながらつらい道を歩むのかもしれない。わたしのような人間には分からない心境だ。

 もっともこれは絵だけではなく、小説でも音楽でも同じだろう。ドストエフスキーを読んだ後に’さあ小説を書こう’とは中々思えないと思う。前回紹介したがスティーブン・キングは’書くことについて’の中で、一流の作家の上に超一流がいると言っていた。シェ−クスピアやフォークナーがそうで、これらは神か天才だと言っている。きっとキングも天才にはかなわないと思いながらもひたすら書き続け、世界中で人気の一流作家になったのだろう。一流作家としての才能がある人は、天才の偉業に打ちひしがれても立ち上がり、自分の道を進んでいけるのだろう。(わたしから見ればスティーブン・キングも天才のようなものだが)

 天才とは何かというテーマはとても興味深いので、いつかここに書きたいなと思っているが、何しろ手に余るので中々実現しない。ポーラ美術館は久しぶりにそのことを思い出させてくれた。