終戦のエンペラー

 今回はスティーブン・キングの第二回目を書くつもりだったが標記の映画を見たので、急遽変更してこれについて書く。話題作だが、いつも通り何の情報も持たず見に行く。映画を見る時はいつも期待も予想もなく、ボーットしたまま見に行くので大抵感心してしまう。まあ、たまにはこれはないだろうという映画にぶつかることもあるが、田舎者が東京に来てびっくりするように、大抵の映画については上手いこと撮るなあと思ってしまうのだ。

 多分映画がそれほど好きではないからだと思う。と言っても嫌いなわけではないし、見ると面白いと思うのだが、わざわざ出かけてまで見るのが面倒なのだ。それでも行くのは無料鑑賞券を持つ妻との付き合いからだ。普段の空いた日にただで映画を見るのは悪くない。退職者の正しい過ごし方の一つだろう。

 映画自体は中々面白かった。後で評価などを調べるとそれほど高いとは言えず、歴史のとらえ方が浅いとか類型的だとかの批判が多いようだが、それは映画自体に期待のしすぎだろうと思ってしまう。
 まず感じたのは、何でアメリカ人がこの映画を作ったのか、誰が見るのだろうかということだ。確かに太平洋戦争に関する天皇の責任はアメリカ人にとってそれなりに興味のある事柄かもしれないが、わざわざ映画にして一般の人達が大勢見に来るとは思えない。ハリウッド映画と言いながら主要なターゲットは日本人なのではないかとも思った。わたし達には身近なテーマだし、本や他の映画でも見た話が違う視点から描かれるのを見るのは興味深いからだ。

 見終わってから知ったことだがこの映画のプロデューサーは、色々な日米の合作映画などに携わった奈良橋陽子だ。奈良橋は映画に出てくる関谷貞次郎の孫で、戦前に官僚として要職を歴任した氏から戦争の時の話をよく聞いていたのだそうだ。彼女がこの映画の原作となる岡本嗣郎の「陛下をおすくいなさいまし 河井道とボナー・フェラーズ」を読んで感動し、映画化を計画しハリウッドに企画を持ち込んだとのことだ。このことを知って前記のわたしの疑問は解けたし、やはり日本人をメインのターゲットとしているのだろうと思った。

 話の内容はボナー・フェラーズという准将がマッカーサーの命を受けて、天皇の戦争責任の有無を調べる苦労を描いたものだ。これに彼の別れた恋人(米国に留学していた日本人女性で戦争で帰国した)の消息を調べる話が交差する。興味深いのはフェラーズが日本の有力者(政治家、軍人、官僚)に会って天皇の関与を尋ねるシーンで、誰一人としてはっきりしたことを言わず、曖昧な態度を取り、問題を正面からとらえようとしないことだ。当然フェラーズはいらいらするし、マッカーサーからは判断するための具体的な資料を集めるように叱責される。わたし達日本人にはよく分かるところだが、今の政治家や官僚の話を聞いていると、いや大新聞のようなマスコミの記事でさえ、ここに描かれた終戦の時と本質的には変わっていないと感じてしまう。曖昧な言い方で責任逃れをする、物事の本質を論じようとせずレトリックですり替えを行うと言った点だ。

 一週間ほど前にNHKテレビで従軍作家として有名になった火野葦平のことを描いたドキュメンタリーを見た。彼はフィリピンで米軍と全く勝ち目のない戦いをして多くの兵士を無意味に死なせた司令官のやり方を見て怒りを感じ、帰国して陸軍大将に直訴した時にこう言われた。「良く分かった。しかし肉を切らせて骨を切るというやり方もあるのだ」 フィリピンで食料も武器も与えられず戦うことを命ぜられた兵士と、それを命じた司令官を見た彼は、陸軍大将がこうではもう日本軍は救いようがないと思いそれを密かに記していたそうだ。

 この映画と共通するのは、現実を見ず、何が最善の手かを考えようとしない無能で無責任な人達が権力を持っていたことだ。大戦のことを調べていつも感じるのは、死ななくてもよい兵士がいかに沢山死んだかということと、死ななくてもよい市民がいかに沢山死んだかということだ。その最後が広島と長崎だ。百歩譲って、戦争に突入したことは避けられなかったとしても、明らかに勝ち目がなくなった時に止めることが出来なかった責任は重大だ。現実を見ずに嘘の記事を書き続けた大新聞の責任も大きい。政府と軍に利用された火野葦平は戦後自殺しているが、裁判を逃れた政治家や新聞はどんな責任を取ったのだろうか。そう考えながら安倍首相の侵略の定義論などを聞くと本当に暗い気持になる。

 このブログで何度も書いたように安倍氏は鳩山氏や菅氏に比べるとはるかに総理としての要件を備えている。自分だけが手柄を立てればよい、責任は人に押し付け、国益に反してもかまわない、もしくは国益とは何かすら分からないといった二人の前首相に比べたら、安倍氏は人間としてまともだし、国を守ることへの意欲と責任感もある。しかし日本の過去への見方はやはりバイアスがかかっているのではないか。人間は誰でも間違える。間違えたことは恥ではないだろう。それを認めない方が恥なのだ。どう見ても日本がアジアの国々を侵略したのは否定し難い。それを認めてから今後の平和を語るのが筋だろう。それを避けていては現在の中国の横暴な振る舞いも批判できないのではないか。安倍氏が侵略についての考え方を変える時、彼は偉大な政治家になる一歩を踏み出すことが出来るのではないかと思う。尊敬する祖父の戦争責任を認めたくない気持ちから今のようなスタンスをとるのだろうが、もうその呪縛からは解き放たれていい時期だろう。

 映画に戻ると主演はテレビの'LOST'シリーズで主演を演じたマシュー・フォックスマッカーサーはコーヒーのCMで人気のトミー・リー・ジョーンズである。
日本人俳優では恋人のあやを初音映莉子、フェラーズの通訳を羽田昌義が演じている。羽田は重要な役回りでしっかりとした感じを出している。
 さらに忘れてはならないのが脇役が充実していることだ。西田敏行夏八木勲中村雅俊片岡孝太郎伊武雅刀桃井かおりなどが出演している。伊武を除いて英語で演じているのだが立派な英語で感心させられる。片岡扮する天皇マッカーサーと二人きり(通訳はいる)で会談する時に、立ち上がりゆっくりとした英語ですべての責任を負う言葉を述べるシーンは感動的だ。人によっては天皇を美化していると批判するのだろうが、やはり胸に迫るものがる。戦後、平成と続く豊かで平和な時代の原点がここにあると感じるからだ。興味ある人は見ても損はしません。